友人から勧められて読み始めたこともあり、久しぶりに付箋をたくさん貼りながら読んだ。
本書はテイラー主義を一つの視軸にしながら、20世紀前半のドイツの台所の変遷を考察していく。
バウハウス的なモダニズム、そのモダニズムを弾圧したナチス的なもの、その双方にまたがる徹底した合理化思想としてのテイラー主義。
これらの受容や相互浸透、相克が丁寧な資料と共に語られる、重厚とも言える思索と検証が込められた書籍である。
本書についての大きな展開については、異論はない(というかまだ十分に咀嚼できていないのかもしれない)ものの、読みながら違和感を覚えた点や得心した点について、以下にいくつか記しておきたい。
1.筆者はゲシュタポについて原語の発音に近い「ゲスターポ」という表記を使用する。そこまで細部にこだわりつつも、「日本の栄養管理士からは・・・」と書いて無頓着である。言うまでもなく、栄養管理士という資格は存在せず、管理栄養士である。
2.現在のシステムキッチンの源流とも言えるフランクフルト・キッチンを設計したマルガリーテ・リホツキーを紹介している部分で、「彼女がいなければ、・・・・私たちは現在のような労働効率重視のキッチンを使用することはなかったかもしれない」と述べている。これは、あまりにも浅薄な歴史観としか言いようがない。テイラー主義が資本主義の生み出した必然であったように、合理的なキッチンもそうである、というのが本書の主張であるはずだ。だとすれば、彼女がいなくても遅かれ早かれ労働効率重視のキッチンは誰かが作ったはずだし、現在のシステムキッチンは誕生していたはずである。
冒頭で、このような歴史観を披歴されると、正直、かなり戸惑い、読み進める意欲を減退させられた。ただし、読み進めていくとこの部分の表現が、本書の流れからは浮いているように思えてくる。なぜ、この部分を書いたのかは謎である。
3.ドイツ社会民主党の指導者であったベーベルの描いた「共産主義的キッチン」がアメリカがモデルだったと指摘し、「『商品のユートピア』であったシカゴ万博にマルクス主義者のベーベルが商品世界からの脱出口を見出す、というアイロニーは実に興味深い」と記す。
しかし、マルクスによれば共産主義とは、資本制的生産の成果を生産手段の社会的所有によって「引き継ぐ」のであるから、ロシア革命や東西冷戦以前のマルクス主義者がこのように考えたことは、歴史に則して観ればアイロニーでも何でもないはずである。
4.フランクフルト・キッチンを設計したリホツキーが、建築家になった理由として「建築は『芸術のための芸術』ではなく、目的と結びつくから」と述べたことを紹介し、著者は「『芸術のための芸術』という19世紀的な美学的価値を彼女は否定している」とする。しかし、これは建築という領域が持つ普遍的な特質であって、19世紀的美学的価値を否定したと立論することには全く同意できない。
5.家政学の概説書『新時代の家事』の著者エルナ・ホルンを紹介する部分で、彼女の横顔の写真が掲載されている。そのキャプションに「エルナ・ホルンの近影とサイン」とある。近影を「近くで撮影」した意味で使っているようであるが、言うまでもなく近影とは、最近の姿、最近撮った写真という意味である。
6.ナチスが女性のことを「第二の性」と公然と呼び、「第一の性」である男性に奉仕すべき存在とみなしていたという指摘がある。『第二の性』はフランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの著作で有名であり、資本主義の下では「第二の性」として女性が位置付けられてきたという指摘はその通りであるが、これを公然とナチスが表明していたことは、本書で初めて知った。
7.ナチスの女性の戦争動員として、「台所は戦場、調理道具は武器」というスローガンが叫ばれたことが紹介されている。まあ、プロパガンダ屋が考えそうなことではある。登山やアウトドアでカトラリーのことを「武器」ということを思い出した。飯ができたから武器を持って集まれ、という具合だ。この「武器」の出所は、このナチスのスローガンかもしれないと思ったが、ロシア語のフォーク「ヴュカ」がなまったものという説もあり、確証はないようだ。
8.ナチス時代の「無駄なくせ闘争」が紹介され、食料は然るべきに購入して保存することが叫ばれる。卵は6月に購入すべし、とある。卵は年中スーパーマーケットにあると、現代日本の住人は考えているが、昔は鶏は卵はヒナを育てやすい6月にしか生まなかったということに気づかされた。
9.ナチス時代に残飯で豚を育てる運動が組織される。それは、大した直接的な有効性は生まなかった(多くの豚を育てられたわけではない)が、それを国民運動として大々的に組織することにより、階級・身分を超えた民族共同体の疑似的一体性の演出が重要な意味を持ったと著者は言う。何だか、毛沢東の大躍進政策時の土法高炉と同じようなものであったのだと感じた。それよりも、ぼくが小学校低学年の時に住んでいた広島県三原市の市営住宅は、生ごみを養豚業者が回収に来て、豚の餌にしていた。国民運動ではなくとも、やりようによっては経済的合理性があったようだ。
10.「あとがき」で、著者は資本主義的効率性の徹底から解放された、喜びにあふれた、つながりのあるキッチンを構想する。著者がここまで述べてきた歴史の先に、どのように接続するのだろうか。中食の普及によるキッチンの喪失等について、どう位置付けていくのだろうか。あとがきの続きを期待したい。
ところで、優れた学者とは誰も取り組んでいないような新しい研究対象を発見した人だとすれば、著者は新しい視角からドイツ近現代史を捉えることを発見したという意味で、そうなのかもしれないと感じた。
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ナチスのキッチン 単行本 – 2012/6/1
藤原 辰史
(著)
- 本の長さ450ページ
- 言語日本語
- 出版社水声社
- 発売日2012/6/1
- ISBN-104891769009
- ISBN-13978-4891769000
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登録情報
- 出版社 : 水声社 (2012/6/1)
- 発売日 : 2012/6/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 450ページ
- ISBN-10 : 4891769009
- ISBN-13 : 978-4891769000
- Amazon 売れ筋ランキング: - 834,245位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 11,171位世界史 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年2月5日に日本でレビュー済み
2013年1月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現在のわれわれのキッチンと比較する大きな視点を与えてくれる。
2022年8月23日に日本でレビュー済み
著者は農や食を通じて時代を解析するというユニークな歴史研究を続けている歴史学者。私は最近注目し出した人だが(先日読んだ「ポストコロナの生命哲学」も、著者・福岡伸一・伊藤亜紗の3氏による鼎談だった)、この著作も10年前の2012年6月刊(2013年度河合隼雄学芸賞受賞)だし、これまで充分に実績を積んで学会からの評価も高い研究者である。ちなみにこの著作は、その後加筆・増補などによる「決定版」が2016年7月に刊行されているが、私が読んだのはオリジナル版。
ここで著者はドイツ20世紀前半(第一次大戦~ワイマール共和国~ナチスドイツ期)の期間を、Ⅰ台所という「空間」の変遷、Ⅱ調理器具等の変遷、Ⅲ家政学の変遷、Ⅳレシピの変遷~という4つの流れを詳細に分析することで、「あの時代」のドイツで食と台所の状況がどのように変化していったかを鮮やかに論じている。
古くは「竈(かまど)」という、屋内の調理場でありながら暖房設備でもあり夜の照明の役割も果たした家の中心で「火を炊く場」が、やがて近代化の流れと共に居間から分離していき、第一次大戦後のオーストリアの女性建築家マルガレータ・シュッテ=リホツキーによる「フランクフルト・キッチン」(現代のシステムキッチンの源流)開発~燃料が薪・炭などからガス・電気へと変化していく中で、「消費者」として市場経済と接続されていく家庭の主婦たち~調理作業の飽くなき効率化・合理化の追求~家政学という新たな学問分野の発展と、様々な事象の数値化・清潔志向・栄養学への依存~レシピ本の普及とその企業広告・販促活動との連携・・・そうした「台所を巡る動き・変化」が、ナチスドイツにおいて、どういう状況を生み出していくのか?
元来、ワイマール共和国期(1918~33年)においては、そうした「キッチンの発展」は「女性の家事労働からの解放」や「女性の社会進出」に資する形で捉えられるべきものだったはずが、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)の支配下では、女性は「第二の性」として男性への従属が当然とされ、「大きな社会≒国家」での戦いに勝利すべく奮闘する男性を支える「小さな社会≒家庭」の責任者、という位置付けになる。そして、家事労働・台所での労働はあくまで「健康な子供を産み育て、健康な男子を戦場に送り出す」ための国家への奉仕活動とされていく。なので、キッチンはあくまで「女性の戦場」であって、家事のシステム化は決して「女性解放」とは結び付かず、むしろ女性は「家事労働に固定化」されていく。そこでの栄養学的見地からのヴィタミン信仰・国産菜食の奨励&肉食の非奨励~戦時体制下での倹約・食材の無駄をなくす運動など、家庭のキッチンがどんどん「国家の体制を維持するための細胞」とされていく様が非常によく分かる。
また、ナチスドイツで定例的に行われていた「アイントプフの日曜日」~アイントプフとはドイツのごった煮料理らしいが、それを集団で食するイベントを全国で実施することで、ドイツ人としての一体感を演出し倹約したお金を寄付させるという手法~また、各家庭での残飯を集めて豚を飼育するという運動など、ナチスが「国民『社会主義』ドイツ労働者党」という正式名称なのを彷彿とさせる事象である。(なお、最近の歴史学会などでは「国家社会主義ドイツ労働者党⇒国民社会主義ドイツ労働者党」が定着しているようなので、ここでもそれに準じる)
しかし、そうした「ドイツ人=ゲルマン民族」の一体感と「階級のない国民国家」の追求が、侵略したポーランドなどからの「半奴隷状態の被支配民族」による過酷な下層労働に支えられていた実態を、当時のドイツ民衆はどれだけ自覚していただろうか?まさにそれは「虚構の理想社会の追求」でしかなかった訳である。
また、この著作の中ではナチスドイツの「徹底した清潔主義」も論じられているが、それはキッチンなどの整理整頓だけでなく、「民族の浄化・ゲルマン民族以外(特にユダヤ人・ロマなど)は害毒同然」といった「清潔感」にも結び付いていく。幾重にもナチスドイツの価値観が「異常な世界観」なのかが様々に見えてくる。
キッチンから見えるナチスドイツ~終章やあとがきで著者は、それを世界の飢餓や地球環境問題にまで話を拡げていくが、歴史を学ぶ・考えるという行為が、E・H・カーが言うように「過去と現在の対話」であるかぎり、それを未来へ向けての思考と繋げていくのも当然のことだろう。
そして、著者の「ナチズムは現代社会とも地続き」という言葉を読む時~私はまさに現在の日本の状況を思い起こす。ここ1ヵ月程の間、主に自民党と「旧統一教会」の関係が世に喧しいが、そこで強調される「家庭」の重要性~これがまさに「家庭での女性の役割」を固定化させ、「家庭という単位」を、ナチスドイツでは「国家と総統」、この国の改憲勢力では「天皇を頂点とする国家体制」、統一教会においては「教祖を戴く宗教世界」に従属させ、「家庭を通じて個人を支配する」構造を目論む意図が背景にあることは、いくら強調しても強調しすぎることはない。最近も、全国の地方自治体で相次ぐ「家庭教育支援法」なるものの提案・可決についての危惧が表されてきているが、「家庭を大事に」とか「家族の絆を大切に」という一見「ええことやん」「どこがアカンのん?」という法案制定への動きの「裏」にどういう意図が隠されているのか?~我々はよく見極めなければならない。
<付記>私は「マギーブイヨン」と「クノールスープ」がそれぞれマギーさん・クノールさんというドイツ人が起業したものであることを、この著作で初めて知った。ずっと米国発祥と思ってた~(*^^*)
<付記2>ヒトラーが酒・タバコもやらず菜食主義者だったことは有名だが、親衛隊トップのヒムラーなどナチス政権には菜食主義者が他にもいて、それが政権挙げての「国産野菜食の奨励」に繋がったのか?著者はそこは明確には論じていないが、菜食主義だから人や動物に優しい~という訳でもない、という証左でもある。
ここで著者はドイツ20世紀前半(第一次大戦~ワイマール共和国~ナチスドイツ期)の期間を、Ⅰ台所という「空間」の変遷、Ⅱ調理器具等の変遷、Ⅲ家政学の変遷、Ⅳレシピの変遷~という4つの流れを詳細に分析することで、「あの時代」のドイツで食と台所の状況がどのように変化していったかを鮮やかに論じている。
古くは「竈(かまど)」という、屋内の調理場でありながら暖房設備でもあり夜の照明の役割も果たした家の中心で「火を炊く場」が、やがて近代化の流れと共に居間から分離していき、第一次大戦後のオーストリアの女性建築家マルガレータ・シュッテ=リホツキーによる「フランクフルト・キッチン」(現代のシステムキッチンの源流)開発~燃料が薪・炭などからガス・電気へと変化していく中で、「消費者」として市場経済と接続されていく家庭の主婦たち~調理作業の飽くなき効率化・合理化の追求~家政学という新たな学問分野の発展と、様々な事象の数値化・清潔志向・栄養学への依存~レシピ本の普及とその企業広告・販促活動との連携・・・そうした「台所を巡る動き・変化」が、ナチスドイツにおいて、どういう状況を生み出していくのか?
元来、ワイマール共和国期(1918~33年)においては、そうした「キッチンの発展」は「女性の家事労働からの解放」や「女性の社会進出」に資する形で捉えられるべきものだったはずが、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)の支配下では、女性は「第二の性」として男性への従属が当然とされ、「大きな社会≒国家」での戦いに勝利すべく奮闘する男性を支える「小さな社会≒家庭」の責任者、という位置付けになる。そして、家事労働・台所での労働はあくまで「健康な子供を産み育て、健康な男子を戦場に送り出す」ための国家への奉仕活動とされていく。なので、キッチンはあくまで「女性の戦場」であって、家事のシステム化は決して「女性解放」とは結び付かず、むしろ女性は「家事労働に固定化」されていく。そこでの栄養学的見地からのヴィタミン信仰・国産菜食の奨励&肉食の非奨励~戦時体制下での倹約・食材の無駄をなくす運動など、家庭のキッチンがどんどん「国家の体制を維持するための細胞」とされていく様が非常によく分かる。
また、ナチスドイツで定例的に行われていた「アイントプフの日曜日」~アイントプフとはドイツのごった煮料理らしいが、それを集団で食するイベントを全国で実施することで、ドイツ人としての一体感を演出し倹約したお金を寄付させるという手法~また、各家庭での残飯を集めて豚を飼育するという運動など、ナチスが「国民『社会主義』ドイツ労働者党」という正式名称なのを彷彿とさせる事象である。(なお、最近の歴史学会などでは「国家社会主義ドイツ労働者党⇒国民社会主義ドイツ労働者党」が定着しているようなので、ここでもそれに準じる)
しかし、そうした「ドイツ人=ゲルマン民族」の一体感と「階級のない国民国家」の追求が、侵略したポーランドなどからの「半奴隷状態の被支配民族」による過酷な下層労働に支えられていた実態を、当時のドイツ民衆はどれだけ自覚していただろうか?まさにそれは「虚構の理想社会の追求」でしかなかった訳である。
また、この著作の中ではナチスドイツの「徹底した清潔主義」も論じられているが、それはキッチンなどの整理整頓だけでなく、「民族の浄化・ゲルマン民族以外(特にユダヤ人・ロマなど)は害毒同然」といった「清潔感」にも結び付いていく。幾重にもナチスドイツの価値観が「異常な世界観」なのかが様々に見えてくる。
キッチンから見えるナチスドイツ~終章やあとがきで著者は、それを世界の飢餓や地球環境問題にまで話を拡げていくが、歴史を学ぶ・考えるという行為が、E・H・カーが言うように「過去と現在の対話」であるかぎり、それを未来へ向けての思考と繋げていくのも当然のことだろう。
そして、著者の「ナチズムは現代社会とも地続き」という言葉を読む時~私はまさに現在の日本の状況を思い起こす。ここ1ヵ月程の間、主に自民党と「旧統一教会」の関係が世に喧しいが、そこで強調される「家庭」の重要性~これがまさに「家庭での女性の役割」を固定化させ、「家庭という単位」を、ナチスドイツでは「国家と総統」、この国の改憲勢力では「天皇を頂点とする国家体制」、統一教会においては「教祖を戴く宗教世界」に従属させ、「家庭を通じて個人を支配する」構造を目論む意図が背景にあることは、いくら強調しても強調しすぎることはない。最近も、全国の地方自治体で相次ぐ「家庭教育支援法」なるものの提案・可決についての危惧が表されてきているが、「家庭を大事に」とか「家族の絆を大切に」という一見「ええことやん」「どこがアカンのん?」という法案制定への動きの「裏」にどういう意図が隠されているのか?~我々はよく見極めなければならない。
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<付記2>ヒトラーが酒・タバコもやらず菜食主義者だったことは有名だが、親衛隊トップのヒムラーなどナチス政権には菜食主義者が他にもいて、それが政権挙げての「国産野菜食の奨励」に繋がったのか?著者はそこは明確には論じていないが、菜食主義だから人や動物に優しい~という訳でもない、という証左でもある。