"災害はわたしたちを、人間性も社会も一変したユートピアに投げ込む。そこでは人々は平常時より大胆で、より自由でしがらみがなく、まとまりがよく充実してはいるが縛られてはいない。"2010年発刊の本書は、災害が悲しみだけでなく、乗り越えられるものを提供してきた事を教えてくれる。
個人的には、タイトルに関しては、単純には災害を歓迎しているかのようなミスリードが人によっては起きる気がして、誤解を招くのでは?とヒヤヒヤしながら手にとったのですが。
本書を読み進めてすぐに、私たち日本人の【災害時の治安の良さ・市民の行動の素晴らしさ】が世界的にも『特筆すべき美点』として評価されている。と私個人が信じてきた事が誤りであり、世界中のあらゆる場合でも【市民全体に共通してきた事実】であることを知り、何ともメディアや映画などに容易く洗脳されている己の無知さには恥ずかしさを、一方で、国や社会や人種や思想、宗教を越えて、人が本来的に共通して持つ『利他的な行動』の美しさには誇りを覚えました。
また本書では、災害の都度『市民はパニックに陥って、その地域は混乱し暴動や略奪やレイプが発生する』というお馴染みのイメージが『利己的な活動』を通しトップへと登りつめた【少数のエリート】による利己的な自分たちの鏡のイメージが増幅された結果『創られたもの』だと指摘し、実際起きている事とは真逆に起きた【エリートパニック】により、災害時に被害者があべこべに犯罪者扱いされて【治安維持部隊】によって殺害されたり掠奪してきた事を何度も紹介しているのですが。こちらに関しては政治家に関しては保留するとして【自衛隊の方々】には感謝しかないな。。と、実際に被災地でのボランティア活動で共にした隊員の顔を思い浮かべながら、あらためて感じました。
災害そのものへの防災や減災ではなく、歴史的に災害が政治や社会構造に【どのような変化】を与えてきたかに興味のある誰か、自然発生的なコミニュティに関心のある誰かにもオススメ。
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災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ) 単行本 – 2010/12/17
レベッカ・ソルニット
(著),
高月園子
(翻訳)
「お互いに助け合い、秩序を持って行動する日本人の姿はすばらしい」と言われる。しかし、実は災害時のそうした行動は、日本人だけではなく、世界中で共通してみられるという。 著者のレベッカ・ソルニット氏は1989年にカリフォルニア州でロマ・プリータ地震に遭い被災している。その経験をもとに、1906年のサンフランシスコ地震から2005年に起きたニューオリンズのハリケーン被害までを取材・研究してまとめたのが本書である。 「大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるがそれは真実とは程遠い」と著者は言う。「地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す」。災害時に形作られる即席のコミュニティは「地獄の中で」他人とつながりたいという、欲望よりも強い欲求の結果である。災害を例にとり、社会や人間心理の本質に迫っている。
- 本の長さ442ページ
- 言語日本語
- 出版社亜紀書房
- 発売日2010/12/17
- 寸法13.7 x 2.9 x 19.4 cm
- ISBN-104750510238
- ISBN-13978-4750510231
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商品の説明
著者について
ノンフィクション作家。サンフランシスコ在住。代表作『River of Shadows : Eadweard Muybridge and the Technological Wild West』で全米批評家協会賞ならびにマーク・リントン歴史賞を受賞
東京女子大学文理学部史学科卒業。在英25年
東京女子大学文理学部史学科卒業。在英25年
登録情報
- 出版社 : 亜紀書房 (2010/12/17)
- 発売日 : 2010/12/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 442ページ
- ISBN-10 : 4750510238
- ISBN-13 : 978-4750510231
- 寸法 : 13.7 x 2.9 x 19.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 214,887位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2019年5月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2017年1月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「災害ユートピア」私が最初にこの本のタイトルを見たとき、このタイトルはあまりにも刺激的だと思いました。今まで災害のによって、自分の住まいや職業、または大事な人を失なった、多くの人々たちに災害はユートピアであるというのはあまりにも残酷てはないか。もし著者であるレベッカ本人が災害に会って、大事な人を失ったとしたらとしたら、レベッカはそういうことを言えるのか。災害ユートピアという本を見る前の私はそう思いました。
第一章では、災害にあうと、人間はパニックに陥り、利己的になり、野蛮になるというイメージが強いが、実際人間は大惨事に直面すると、人は利他的になり思いやりを示すとレベッカは述べている。そして、そのことを様々な事例を挙げて説明している。本文でレベッカは以下のように述べている。
大災害は、それ自体は不幸なものだが、時にはパラダイスに戻るドアにもなりうる。少なくともそこでは、私たちは自分がなりたい自分になり、取りたい行動をとり、それぞれが兄弟姉妹の番人になる(p13)
第二章では、災害映画なとをみてみると、群衆がパニックに陥いり場面がよく描かれるが、現実でパニックに陥るのはエリート層であると述べている。そのことをエリートパニックと呼び、エリートパニックに陥る原因はエリート層は社会的混乱に対する恐怖であり、群衆がパニックになると思って引き起こされている。
第三章では、メキシコシティ大地震を例と挙げ、災害時に群衆が起こした革命について述べている。ここでは、災害時に生まれたユートピアが継続して残って、それがメキシコの独裁制限を崩壊させ、下からの革命を起こすことにどう影響したかについて説明している。(第四章の要約は省略する)
私がこの本を読んで気づいたことは、彼女は災害の良いと言ってるわけではないということである。
彼女は災害を美徳化しているように見えるが、彼女が本当に言いたかったのは人と人のつながりがどれほど美しくて、想像を超える力を持っていることではなかっただろう。彼女がタイトルにユートピアと書くほど、ユートピアに拘っているのは、災害が起きても私たちができることがある、乗り越えられるという、あえてポジティブな捉え方を私たちに提示しているのではないだろうか。
第一章では、災害にあうと、人間はパニックに陥り、利己的になり、野蛮になるというイメージが強いが、実際人間は大惨事に直面すると、人は利他的になり思いやりを示すとレベッカは述べている。そして、そのことを様々な事例を挙げて説明している。本文でレベッカは以下のように述べている。
大災害は、それ自体は不幸なものだが、時にはパラダイスに戻るドアにもなりうる。少なくともそこでは、私たちは自分がなりたい自分になり、取りたい行動をとり、それぞれが兄弟姉妹の番人になる(p13)
第二章では、災害映画なとをみてみると、群衆がパニックに陥いり場面がよく描かれるが、現実でパニックに陥るのはエリート層であると述べている。そのことをエリートパニックと呼び、エリートパニックに陥る原因はエリート層は社会的混乱に対する恐怖であり、群衆がパニックになると思って引き起こされている。
第三章では、メキシコシティ大地震を例と挙げ、災害時に群衆が起こした革命について述べている。ここでは、災害時に生まれたユートピアが継続して残って、それがメキシコの独裁制限を崩壊させ、下からの革命を起こすことにどう影響したかについて説明している。(第四章の要約は省略する)
私がこの本を読んで気づいたことは、彼女は災害の良いと言ってるわけではないということである。
彼女は災害を美徳化しているように見えるが、彼女が本当に言いたかったのは人と人のつながりがどれほど美しくて、想像を超える力を持っていることではなかっただろう。彼女がタイトルにユートピアと書くほど、ユートピアに拘っているのは、災害が起きても私たちができることがある、乗り越えられるという、あえてポジティブな捉え方を私たちに提示しているのではないだろうか。
2011年5月1日に日本でレビュー済み
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東日本大震災を念頭に置いて本書を読んだ。
今回の震災において、日本人の冷静な対応ぶりが世界で評判となった。しかし、本書を読む限り、震災時の市民の互助利他的な対応は日本の特許ではない。本書で展開される世界各国での同様の対応には人類が持つ「社会資本」というものが見える。新自由主義や経済合理性からでは理解できない人間の一つの強さがそこにある。「自分にとっての最適な経済活動」を本能的に取る動物が人間だという考え方から、今回の震災時の市民の対応は説明不能である。
一方、災害時のエリートが見せるパニックという視点は大いに勉強になった。
エリートから見ると、災害とは自分の既得権=権力が失われる重大な危機であり、パニックを起こすという図式は今回の震災からも見えてくる。
特に福島原発を巡る各種混乱は、このエリートパニックという観点で見ると良く理解出来る。原発関連のエリートにとって救助すべき対象は退避している福島県民や農水産業を含む環境問題ではない。それは「自分の地位」なのではないかと感じてしまう場面が多くないか。
但し、現場の「エリート」がパニックを起こしているか。具体的には自衛隊、警察の方を意味するわけだが、メディアを見ている限り、今回の震災で彼らが暴挙を働いたという話はない。これは本書が最後に大きく取り上げているニューオリンズのハリケーンカトリーナの事例と大きく違っている。世界が称賛しているのは、案外現場エリートの沈着な対応なのかとすらちょっと考えた程だ。
日本の社会は閉塞している。赤木智彦という論者は「戦争になる方が良い」とすら語った。戦争になれば、今の固定化された社会が液状化し、弱者のチャンスが来る可能性が、現在より大きくなるだろうという期待だ。
今回の震災は戦争ではない。しかし、日本の社会を液状化させる可能性は秘めている。災害を奇貨と出来るかどうか。それこそが震災が起きてしまった日本の力である。
人間は災害をきっかけに成長してきた。それも本書のメッセージだ。日本は災害が多い国だ。災害が多かったからここまで成長してきたのかもしれない。であるなら、今回の災害をどう克服するのか。それが本書を読みながら絶えず突き付けられた質問であった。
今回の震災において、日本人の冷静な対応ぶりが世界で評判となった。しかし、本書を読む限り、震災時の市民の互助利他的な対応は日本の特許ではない。本書で展開される世界各国での同様の対応には人類が持つ「社会資本」というものが見える。新自由主義や経済合理性からでは理解できない人間の一つの強さがそこにある。「自分にとっての最適な経済活動」を本能的に取る動物が人間だという考え方から、今回の震災時の市民の対応は説明不能である。
一方、災害時のエリートが見せるパニックという視点は大いに勉強になった。
エリートから見ると、災害とは自分の既得権=権力が失われる重大な危機であり、パニックを起こすという図式は今回の震災からも見えてくる。
特に福島原発を巡る各種混乱は、このエリートパニックという観点で見ると良く理解出来る。原発関連のエリートにとって救助すべき対象は退避している福島県民や農水産業を含む環境問題ではない。それは「自分の地位」なのではないかと感じてしまう場面が多くないか。
但し、現場の「エリート」がパニックを起こしているか。具体的には自衛隊、警察の方を意味するわけだが、メディアを見ている限り、今回の震災で彼らが暴挙を働いたという話はない。これは本書が最後に大きく取り上げているニューオリンズのハリケーンカトリーナの事例と大きく違っている。世界が称賛しているのは、案外現場エリートの沈着な対応なのかとすらちょっと考えた程だ。
日本の社会は閉塞している。赤木智彦という論者は「戦争になる方が良い」とすら語った。戦争になれば、今の固定化された社会が液状化し、弱者のチャンスが来る可能性が、現在より大きくなるだろうという期待だ。
今回の震災は戦争ではない。しかし、日本の社会を液状化させる可能性は秘めている。災害を奇貨と出来るかどうか。それこそが震災が起きてしまった日本の力である。
人間は災害をきっかけに成長してきた。それも本書のメッセージだ。日本は災害が多い国だ。災害が多かったからここまで成長してきたのかもしれない。であるなら、今回の災害をどう克服するのか。それが本書を読みながら絶えず突き付けられた質問であった。
2012年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
引用元や根拠が不明確であるため、議論としては問題がありますが、一般社会のマインドセットに疑問を投げかける意味においては非常に有意義な文献であると思います。
多くのレビューにあるように、災害時の自然発生的な相互扶助や、権力側が陥る一種のパニックに関する指摘は、災害学に馴染みのない読者にとって新鮮です。
しかしながら、著者の盲目的な権力に対する嫌悪や無政府主義への慎重さに欠ける礼賛、被害妄想的なフェミニズムの信条がそこかしこに現れ、議論全体の信頼性を損なうものになっています。もう少し論理的であれば受け止めきれるのですが、やや持て余してしまいます。よって星2つ減点。
多くのレビューにあるように、災害時の自然発生的な相互扶助や、権力側が陥る一種のパニックに関する指摘は、災害学に馴染みのない読者にとって新鮮です。
しかしながら、著者の盲目的な権力に対する嫌悪や無政府主義への慎重さに欠ける礼賛、被害妄想的なフェミニズムの信条がそこかしこに現れ、議論全体の信頼性を損なうものになっています。もう少し論理的であれば受け止めきれるのですが、やや持て余してしまいます。よって星2つ減点。
2017年4月1日に日本でレビュー済み
本書が与えてくれる洞察は決して小さいものではない。
まず認識すべきことは、大災害や大災厄において相互扶助や献身的なボランティア精神に満ちた理想的共同体が発生するという現象は、案外頻繁に観察されるという点だ。
震災後、暴動や略奪に走らない日本人の姿が驚嘆とともに報道され、多くの日本人はそれを誇りとして受け止めた。しかし、その心情が無意識のうちに前提にしている「諸外国では、人々は大災害において暴動・略奪に走り、利己的に振舞う」という認識は、実はかなり歪んだ認識であることが本書によって示されている。古くは100年前、1906年のサンフランシスコ大地震の時にも、新しくは2001年の911の時にも、理想的な助け合い社会が被災地に生まれているのである。
「困難な状況下でも理性的に行動する日本人」という自画像も結構だが、その裏に危うい選民感情が潜んでいないかどうか、十分注意すべきではなかろうか。
同時に我々がよく考えるべきなのは、誰もが求めてやまないこうした「絆」や社会的連帯が発生するのが、どうして決まって「大災害の時」なのかという問題だ。
この問題が示唆しているのは、我々の社会において絆を破壊し、紐帯を断絶させているのが、実は「災害」ではなく「日常」のほうだという事実である。その日常が災害によって覆されたとき、絆はようやく姿を現し、逆に日常が回復されるとともに姿を消すのである。
つまり、我々の日常を形成している原理や価値観の中には、社会的連帯を許さない何ものかがあるのである。その正体を厳密に特定することは困難だし、おそらく無理だろう。だが、「日常」の中に危うい萌芽は存在する。韓流番組に洗脳を読み取って危険を叫ぶ人々や、外国人参政権が議論されると「国が犯罪者天国になる」とわめく人々。その一方で、「外国人と異なり日本人は暴動・略奪には走らない」と誇るのだ。
自尊心とその裏返しとしての差別感情は、自分と異なる者を認めないという発想であり、それは当然社会的連帯を失わせるものだ。
また本書で指摘されている「エリートパニック」という現象も、我々の日常がどうして連帯や絆を喪失しているかについて、重要な示唆をもたらしてくれる。
「エリートや権威者たちは災害による変化を恐れるか、もしくはその変化がカオスや破壊を引き起こすか、少なくとも彼らの権力基盤を揺るがすものと思い込む。…エリートたちは、自分たちが管理しない限り、民衆は収拾がつかない状態に陥ると信じていて、その恐怖感から弾圧的な手を打ち、それが二次的な災害を呼ぶケースもある」
現代社会において指導的地位に立つ者たちが信奉する価値観は、多くの場合「人間は合理的な理由により個人的な利益を追求する」という前提に立っている。そしてそうした価値観の支配する社会で勝ち組としてのし上がった者たちが、本書に言う「エリート」なわけだ。
理想的共同体とは正反対の価値観が支配する「日常」、その日常社会において勝ち組となった「エリート」。こうしたエリートたちにとって、社会が利他的・相互扶助的になることは都合の悪いことなのだ。災害時に民衆を暴徒と恐れてパニックを起こすのが、これらのエリートたちだったことが本書では指摘されている。
我々の「絆」を引き裂いているものが何なのか。最後に本書の中に出てくるある被災者のコメントを引こう。
「悪いことが起きたときにこそどんな振る舞いをするかが大事だってよく言われますよね。でも、それは簡単なのですよ。物事がうまくいっているときにどう行動するかが、本当は問題なのです」
まず認識すべきことは、大災害や大災厄において相互扶助や献身的なボランティア精神に満ちた理想的共同体が発生するという現象は、案外頻繁に観察されるという点だ。
震災後、暴動や略奪に走らない日本人の姿が驚嘆とともに報道され、多くの日本人はそれを誇りとして受け止めた。しかし、その心情が無意識のうちに前提にしている「諸外国では、人々は大災害において暴動・略奪に走り、利己的に振舞う」という認識は、実はかなり歪んだ認識であることが本書によって示されている。古くは100年前、1906年のサンフランシスコ大地震の時にも、新しくは2001年の911の時にも、理想的な助け合い社会が被災地に生まれているのである。
「困難な状況下でも理性的に行動する日本人」という自画像も結構だが、その裏に危うい選民感情が潜んでいないかどうか、十分注意すべきではなかろうか。
同時に我々がよく考えるべきなのは、誰もが求めてやまないこうした「絆」や社会的連帯が発生するのが、どうして決まって「大災害の時」なのかという問題だ。
この問題が示唆しているのは、我々の社会において絆を破壊し、紐帯を断絶させているのが、実は「災害」ではなく「日常」のほうだという事実である。その日常が災害によって覆されたとき、絆はようやく姿を現し、逆に日常が回復されるとともに姿を消すのである。
つまり、我々の日常を形成している原理や価値観の中には、社会的連帯を許さない何ものかがあるのである。その正体を厳密に特定することは困難だし、おそらく無理だろう。だが、「日常」の中に危うい萌芽は存在する。韓流番組に洗脳を読み取って危険を叫ぶ人々や、外国人参政権が議論されると「国が犯罪者天国になる」とわめく人々。その一方で、「外国人と異なり日本人は暴動・略奪には走らない」と誇るのだ。
自尊心とその裏返しとしての差別感情は、自分と異なる者を認めないという発想であり、それは当然社会的連帯を失わせるものだ。
また本書で指摘されている「エリートパニック」という現象も、我々の日常がどうして連帯や絆を喪失しているかについて、重要な示唆をもたらしてくれる。
「エリートや権威者たちは災害による変化を恐れるか、もしくはその変化がカオスや破壊を引き起こすか、少なくとも彼らの権力基盤を揺るがすものと思い込む。…エリートたちは、自分たちが管理しない限り、民衆は収拾がつかない状態に陥ると信じていて、その恐怖感から弾圧的な手を打ち、それが二次的な災害を呼ぶケースもある」
現代社会において指導的地位に立つ者たちが信奉する価値観は、多くの場合「人間は合理的な理由により個人的な利益を追求する」という前提に立っている。そしてそうした価値観の支配する社会で勝ち組としてのし上がった者たちが、本書に言う「エリート」なわけだ。
理想的共同体とは正反対の価値観が支配する「日常」、その日常社会において勝ち組となった「エリート」。こうしたエリートたちにとって、社会が利他的・相互扶助的になることは都合の悪いことなのだ。災害時に民衆を暴徒と恐れてパニックを起こすのが、これらのエリートたちだったことが本書では指摘されている。
我々の「絆」を引き裂いているものが何なのか。最後に本書の中に出てくるある被災者のコメントを引こう。
「悪いことが起きたときにこそどんな振る舞いをするかが大事だってよく言われますよね。でも、それは簡単なのですよ。物事がうまくいっているときにどう行動するかが、本当は問題なのです」