ヨナスの結論はシンプルです。「神は全能ではない」
それは悲しい宣告でしょうか。きっと、そうではないはずです。
神が全能ではないからこそ、われわれ人間は決定論の外の世界を生きることができます。
自由と責任を持つ、主体たることができます。
ヨナスが言う「神は私たちを助けることができず、私たちが神を助けなくてはならない」という神概念は、レヴィナスのそれにも通ずるものがあるでしょう。
勧善懲悪を神がすべてやってくれるのならば、人間に倫理など必要ありません。
でも、そうではない世界をわれわれは生きているのであり、それはけっして悲観すべきものではないはずです。
アウシュヴィッツの惨劇とその教訓を胸に刻みつつ、不完全な神と共に生きるこれからの時代に、ささやかな希望と、人間の矜恃を見出したいものです。
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アウシュヴィッツ以後の神 (叢書・ウニベルシタス 924) 単行本 – 2009/9/17
絶滅収容所という絶対悪を前に、神はなぜ沈黙したのか? 「ショアー」以後の現代世界にあって、神とは何を意味するのか? 20世紀西欧思想の核をなすユダヤ的問題のアポリアを生き抜いた哲学者が、歴史の暴力の神学的意味を問い、いっさいの希望の喪失後になお生き延びる「神」の概念、および人間的倫理のかたちを探った論考三篇を収録。訳者による詳細な注や解題、著者小伝も付した決定版邦訳。〔哲学〕
- 本の長さ228ページ
- 言語日本語
- 出版社法政大学出版局
- 発売日2009/9/17
- 寸法13.5 x 2 x 19.6 cm
- ISBN-104588009249
- ISBN-13978-4588009242
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商品の説明
著者について
1903年にドイツのメンヒェングラートバハの裕福なユダヤ人家庭に生まれる。学生時代にシオニズム運動に参加。ハイデガー,ブルトマンのもとでグノーシス思想研究によって学位取得。ナチスの政権掌握の年,ドイツを出国。イギリスをへてパレスチナに移住。第二次世界大戦が勃発するとイギリス軍に志願し,ユダヤ旅団に属して戦う。戦後はパレスチナ戦争に従軍後,イスラエルを出て,カナダ,さらにアメリカ合衆国に渡り,ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ校教授を務めた。目的論的自然観による生命哲学を展開し,生命倫理学の研究拠点ヘイスティングス・センター研究員を務め,人間を対象とする技術操作に警告を発する。地球規模での環境破壊に抗して未来に人類を存続せしめる現在世代の責任を説く責任原理によって世界的に知られるにいたる。1993年にニューヨークで死去。『グノーシスの宗教』(人文書院),『責任という原理』(東信堂),『生命の哲学』(法政大学出版局)等が邦訳されている。
1957年生。哲学・倫理学専攻。京都大学大学院博士後期課程修了。京都大学博士(文学)。現在,関西大学教授。著書に『正義と境を接するもの──責任という原理とケアの倫理』(ナカニシヤ出版),共編著に『自己と他者』(昭和堂),『科学技術と環境』(培風館),訳書にR.ヴィーチ『生命倫理学の基礎』(メディカ出版)等がある。
1957年生。哲学・倫理学専攻。京都大学大学院博士後期課程修了。京都大学博士(文学)。現在,関西大学教授。著書に『正義と境を接するもの──責任という原理とケアの倫理』(ナカニシヤ出版),共編著に『自己と他者』(昭和堂),『科学技術と環境』(培風館),訳書にR.ヴィーチ『生命倫理学の基礎』(メディカ出版)等がある。
登録情報
- 出版社 : 法政大学出版局 (2009/9/17)
- 発売日 : 2009/9/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 228ページ
- ISBN-10 : 4588009249
- ISBN-13 : 978-4588009242
- 寸法 : 13.5 x 2 x 19.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 974,806位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 220位ユダヤ教 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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2016年9月11日に日本でレビュー済み
先に考えていたような、ショアー以後の神義論を扱った論考ではなかった。
だが、読んでよかったと思う。
第一の論文『アウシュヴィッツ以後の神概念』は、たしかに神義論であるが、
言語に絶する現代の現実(ホロコースト)によって新たに神義論が要請され、
神概念が変容されざるを得ないという、事態の生々しさが迫る。
……一なる全能者であった神は、万物の存在を実現させるために、
自らの全能性を棄て、生成のドラマを発現させた。
神は宇宙生成に介入する力を失くしており、人間のありさまを気遣っている。
神は人間を助けることができない。人間が神を助けねばならない。……
そのように議論される。
が、それはショアーが要請した、人間のあがきのような神概念なのであり、
その概念的検討とは別に、パセティックな印象を私の胸に刻んだ。
その痛々しさには胸を打つものがあった。
第二の論文『過去と真理』につづく、第三の論文『物質、精神、創造』、
とくにその第13節以降は、本書の中でもっとも興味深い。
だが、読んでよかったと思う。
第一の論文『アウシュヴィッツ以後の神概念』は、たしかに神義論であるが、
言語に絶する現代の現実(ホロコースト)によって新たに神義論が要請され、
神概念が変容されざるを得ないという、事態の生々しさが迫る。
……一なる全能者であった神は、万物の存在を実現させるために、
自らの全能性を棄て、生成のドラマを発現させた。
神は宇宙生成に介入する力を失くしており、人間のありさまを気遣っている。
神は人間を助けることができない。人間が神を助けねばならない。……
そのように議論される。
が、それはショアーが要請した、人間のあがきのような神概念なのであり、
その概念的検討とは別に、パセティックな印象を私の胸に刻んだ。
その痛々しさには胸を打つものがあった。
第二の論文『過去と真理』につづく、第三の論文『物質、精神、創造』、
とくにその第13節以降は、本書の中でもっとも興味深い。
2009年10月19日に日本でレビュー済み
神の存在証明は不可能だというカント(というより近代の哲学)の主張を、20世紀の哲学者ヨーナスも共有する。そこで、この本は神の存在を証明するのではなく、アウシュヴィッツに沈黙していた神とはどのような神でありうるか、を論じている。だから、カントが『実践理性批判』でしたように、せいぜい神の「要請」にとどまる。
それなら、なぜ、そんなテーマをとりあげるのか。神がアウシュヴィッツに介入しなかった以上、ユダヤ人ヨーナスにとって、ユダヤ教の正統的な教えをそのまま受け入れることはできないからだし、彼個人の身の上をいえば、アウシュヴィッツとは彼の母が殺された場所である。第一章の「アウシュヴィッツ以後の神概念」はもともと講演だそうで、恐れおののきながらこのテーマを語るヨーナス個人の思いが強く伝わってくる。
なお、ホロコーストのあとでユダヤの神学者たちのあいだにどのような反応が生じたか――たとえば、ルーベンステインの「神の死の神学」(神が死んだのに神学というところが面白くも、にわかには理解しがたいが)――については、訳者による解題のなかで、ほんの少しだが、まとめられている。
ヨーナスは、グノーシス研究、ハイデガーの弟子、脳死や人体実験について保守的(?)な提言をした人、自然のなかに目的を見出す生命哲学、環境危機を防ぐ現代世代の責任を説く責任原理、それにアウシュヴィッツ以後の神の話といろいろな仕事をしている人だが、どこがどうつながっているのか、これまで散発的に出版されてきた訳書では触れられてこなかった。本書は、訳者による「ハンス・ヨーナスの生涯」のなかに、彼の人生に即して思想の展開・変転が説明されている。
これを読むと、『グノーシスの宗教』あとがきで秋山さと子が「実存哲学の中に、グノーシス的なものを認め、近代自我が生み出した問題の解決を図ろうとする意図においては、ヨナスの指摘は間違っていない」と書いているのとまったく逆に、ヨナスはグノーシスと近代哲学との親近性を指摘して、それらの共有する人間疎外を、人間を自然のなかに根づかせる生命哲学で解決しようとしたことになる。ひとりの哲学者の思想をどう読むか、たいへん難しいが、理解するには、ある程度、その哲学者の全貌の把握が必要なことを示す一例かもしれない。
そんなに厚くはない、たった三篇の論文だけの簡潔な内容だが、註も含めて丁寧に作られた本だと思った。
それなら、なぜ、そんなテーマをとりあげるのか。神がアウシュヴィッツに介入しなかった以上、ユダヤ人ヨーナスにとって、ユダヤ教の正統的な教えをそのまま受け入れることはできないからだし、彼個人の身の上をいえば、アウシュヴィッツとは彼の母が殺された場所である。第一章の「アウシュヴィッツ以後の神概念」はもともと講演だそうで、恐れおののきながらこのテーマを語るヨーナス個人の思いが強く伝わってくる。
なお、ホロコーストのあとでユダヤの神学者たちのあいだにどのような反応が生じたか――たとえば、ルーベンステインの「神の死の神学」(神が死んだのに神学というところが面白くも、にわかには理解しがたいが)――については、訳者による解題のなかで、ほんの少しだが、まとめられている。
ヨーナスは、グノーシス研究、ハイデガーの弟子、脳死や人体実験について保守的(?)な提言をした人、自然のなかに目的を見出す生命哲学、環境危機を防ぐ現代世代の責任を説く責任原理、それにアウシュヴィッツ以後の神の話といろいろな仕事をしている人だが、どこがどうつながっているのか、これまで散発的に出版されてきた訳書では触れられてこなかった。本書は、訳者による「ハンス・ヨーナスの生涯」のなかに、彼の人生に即して思想の展開・変転が説明されている。
これを読むと、『グノーシスの宗教』あとがきで秋山さと子が「実存哲学の中に、グノーシス的なものを認め、近代自我が生み出した問題の解決を図ろうとする意図においては、ヨナスの指摘は間違っていない」と書いているのとまったく逆に、ヨナスはグノーシスと近代哲学との親近性を指摘して、それらの共有する人間疎外を、人間を自然のなかに根づかせる生命哲学で解決しようとしたことになる。ひとりの哲学者の思想をどう読むか、たいへん難しいが、理解するには、ある程度、その哲学者の全貌の把握が必要なことを示す一例かもしれない。
そんなに厚くはない、たった三篇の論文だけの簡潔な内容だが、註も含めて丁寧に作られた本だと思った。
2009年10月16日に日本でレビュー済み
『アウシュヴィッツ以後の神』タイトルからすると、アウシュヴィッツ後に神は存在するのか、しないのか?といったような神学的議論を期待するわかだけれども、1章のタイトルは「アウシュヴィッツ以後の神概念─ユダヤの声」となっていて、神そのものと言うよりも神概念を扱っている。
解説に、「このような話しを期待したわけではなかった。」何て書かれているけれども正にその通りで、ユダヤ的な全能な神概念は失われて、全能ではない神という概念が許される、我々が神を助けるべきだとか、云々。
ユダヤ教の神学的立場からも、めちゃくちゃだし(ヨナスは宗教的立場はあまり明確にしない人らしいが・・・)、全くといって良いほど、読みたい内容とは違った。
2章「過去と真理─遅ればせながらの神の証明の補遺」は興味深く読めたかな。
まず最初に、ヨナスは神の存在証明は絶対に、失敗に終わると言う。不可知論者の僕からすると全くその通りと言いたい。
人間が過去を思い出すとき、何を頼るだろうか、自分の記憶だったり、何かの文献だったりする。けど、それがいつだって正しいとは限らない。
間違った記憶も沢山ある、昨日、今日の話しでも、勘違いを良くする生物だ。
今、思い出し内容が正しいか、正しくないかは誰にも分からない。(例えば何人も同じ思い出を共有していて、同じ結論だったとしても、そこに完全な齟齬がなかったとしても、勘違いがあるかないかは、判断できない)
そこで、ヨナスは言う、過去を思い出すとき、それが正しいか正しくないか、判断するにはある超越論的な存在が必要になる。
だが、超越的な存在の証明は不可能だと、言ったばかりのヨナス。では、我々は過去何てめちゃくちゃにできるのか?
そこで、真理の合致説を持ち出して、その過去の全破壊を食い止める。
それでも、神はいつだって要請されているって話し。
3章「物質、精神、創造─宇宙論的所見と宇宙生成論的推測」
何だかトンデモな議論が予感されるが、まぁ実際そんな感もあるのだけど、これはタイトルとは無縁の神学論だった。
でも、やっぱり、ユダヤ教の正統的な話しとは違う。創造者は存在したが、創造とともに、散り散りになり、精神へとなり、ヘーゲル的絶対精神とは別の未完成の精神になりましたよ。
とかそういった類の話し。あんまり興味でなかった
最後に、ヨナスの小伝と解説がついています。大変助かる内容で、ここはグッジョブだと思う。
全体的には、ヨナスの責任哲学やら生命の哲学を期待すると、その所見は幾つか見れるけど、基本的には外れっぽいです。
素直に主著にあたりましょう。
解説に、「このような話しを期待したわけではなかった。」何て書かれているけれども正にその通りで、ユダヤ的な全能な神概念は失われて、全能ではない神という概念が許される、我々が神を助けるべきだとか、云々。
ユダヤ教の神学的立場からも、めちゃくちゃだし(ヨナスは宗教的立場はあまり明確にしない人らしいが・・・)、全くといって良いほど、読みたい内容とは違った。
2章「過去と真理─遅ればせながらの神の証明の補遺」は興味深く読めたかな。
まず最初に、ヨナスは神の存在証明は絶対に、失敗に終わると言う。不可知論者の僕からすると全くその通りと言いたい。
人間が過去を思い出すとき、何を頼るだろうか、自分の記憶だったり、何かの文献だったりする。けど、それがいつだって正しいとは限らない。
間違った記憶も沢山ある、昨日、今日の話しでも、勘違いを良くする生物だ。
今、思い出し内容が正しいか、正しくないかは誰にも分からない。(例えば何人も同じ思い出を共有していて、同じ結論だったとしても、そこに完全な齟齬がなかったとしても、勘違いがあるかないかは、判断できない)
そこで、ヨナスは言う、過去を思い出すとき、それが正しいか正しくないか、判断するにはある超越論的な存在が必要になる。
だが、超越的な存在の証明は不可能だと、言ったばかりのヨナス。では、我々は過去何てめちゃくちゃにできるのか?
そこで、真理の合致説を持ち出して、その過去の全破壊を食い止める。
それでも、神はいつだって要請されているって話し。
3章「物質、精神、創造─宇宙論的所見と宇宙生成論的推測」
何だかトンデモな議論が予感されるが、まぁ実際そんな感もあるのだけど、これはタイトルとは無縁の神学論だった。
でも、やっぱり、ユダヤ教の正統的な話しとは違う。創造者は存在したが、創造とともに、散り散りになり、精神へとなり、ヘーゲル的絶対精神とは別の未完成の精神になりましたよ。
とかそういった類の話し。あんまり興味でなかった
最後に、ヨナスの小伝と解説がついています。大変助かる内容で、ここはグッジョブだと思う。
全体的には、ヨナスの責任哲学やら生命の哲学を期待すると、その所見は幾つか見れるけど、基本的には外れっぽいです。
素直に主著にあたりましょう。