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邪馬台国と大和朝廷 (平凡社新書 224) 新書 – 2004/5/1

4.2 5つ星のうち4.2 7個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 平凡社 (2004/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2004/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 301ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4582852246
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582852240
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 7個の評価

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武光 誠
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2024年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古代史に興味を持ち始めた人には、
邪馬台国九州説ですが、分かりやすい入門書として読める。
20年前の出版なので、新しい情報も加味しなければならないが、邪馬台国畿内説の考古学寺沢薫氏の著作と照合しながら読めば、自分なりの理解を得られると思う。
2013年2月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
武光氏の本を何冊か読み、氏の史観に興味を持っていました。
邪馬台国や大和朝廷に関する諸先生の本をいろいろ読み、武光氏が邪馬台国をどのように考えているか知りたく、この本を探していましたが、ついに手に入れることができました。
本書は、大和朝廷誕生の定説から始まり、過去の邪馬台国論争を解説。ここまでで三分の一を費やすため、論争の経緯を知っているとかなり退屈に感じます。しかし、よくまとめられています。
魏志倭人伝の読み方には説得力があり、習俗から読み解く手法は斬新でした。
卑弥呼や鬼道、纏向遺跡に関する記述も興味深く、お勧めしたい一冊です。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年5月11日に日本でレビュー済み
▼快刀乱麻だが・・・ 結論は「?」
 著者は断言するタイプらしく(良いことだ)、多くの論点で豪腕を振るう。快刀乱麻で論は軽快に進むが、疑問符がつく言いも多くなる。読んでいて「それってホント?」「いつから定説になったの?」と思うアブナイ記述にしばしば出会う。

 ではダメ本かというと、そんなことはない。
 邪馬台国論争の沿革と要点を的確にまとめ(松本清張説が面白い)、注目すべき古墳・遺跡を分析し、三角縁(ぶち)神獣鏡にも触れ、文献史学あるいは考古学のアプローチ、さらには東洋史、文化人類学や民族学の成果にまで目配りを効かせているから、幅広い俯瞰が得られる。
 ただ展開に強引なところがあり、結果、牽強付会の難を免れていない。加えて文章が下手というか整理が雑で、意味の取り難いところもある。

 参考になり、教えられるところの多い本だが、ミスリードの恐れもある。私にも素人なりの仮説があるので、本書の難点をいくつか指摘したい(アブナイ別方向へミスリードする恐れもあるが・・・)。

▼邪馬台国の位置・・・ 筑後川流域?
 著者は精緻な読解により「邪馬台国は北九州・筑後川の流域のどこかにある」と結論する。しかし、倭人伝の行程記事は北九州を自動的に除外している。

 行程記事には結局のところ確実な指標が何もない。しかし絶対的条件が一つだけある。水行(船による沿岸航海)だ。
 倭人伝は、邪馬台国へ至るには最低20日、長くて30日の水行が不可欠だという。裏返すと「陸行で行き着ける国」は邪馬台国では「ない」。
 当時の倭人の感覚で不弥国から陸行するのは遠すぎるし困難がある、しかし安全な航路は開かれている・・・ そんな遠隔の地に邪馬台国はある。

 著者は不弥国から遠賀川を南下遡上して・・・ と推理する。筑後川流域は筑紫平野であり、陸行で行き着けるのは明らか。だから、そこは邪馬台国ではない。同じことは吉野ヶ里など比定地が多い北部九州全域に言える。
 方位・距離を問題にする以前に九州説は自動的に除外され、畿内・大和説が残る。付け加えれば、20日、30日も遡航できる大河は日本にない。

▼纒向を造った勢力・・・ 吉備の豪族?
 「邪馬台国」の有力候補、纒向は3世紀初め、何もない辺鄙な場所に突然出現した。これを築いた勢力がどこから来たかは大きな謎だ。著者は出土遺物を根拠に、吉備(岡山)の勢力が大和へ移住して纒向を築き、後に大和朝廷へ発展したとする。

 纒向は後の平城京に匹敵する規模があり、大宮殿がそびえ、高層マンションが建ち並び、人工運河が縦横に走り、浄水道まで備えた最先端の超モダンな都市だ。その建設は倭国にとって空前絶後の巨大事業だった。一地方の豪族が担える規模をはるかに超える。
 
 プロジェクトの主体は、国家レベルで“ヒト・モノ・カネ”を動かすことができた最高権力以外にない。纒向は倭連合国の女王・卑弥呼が傘下の30ヶ国に命じて建設し、ヤマトと命名した人工都市と見るべきだ。目的は、北九州から我が国初の首都へ遷都することだった。「卑弥呼が都するところの・・・」という記述にそのニュアンスを感じる。

▼新しい仮説「遷都説」
 最強国は先進エリア北九州にあるべきだとする九州説は納得できる。しかし行程記事は大和説を支持する。二つの説を両立させる東遷説が望ましいが、問題がある・・・。わが「遷都説」はこの三つの説をイイトコドリする。

 あまり指摘されないが、これまでの「邪馬台国東遷説」には難点がある。本拠地を捨て去る必然性を説明していない。邪馬台国が北九州にあったなら、中国・朝鮮半島に近い豊かな先進地域を捨ててまで、辺鄙な大和へなぜ移動しなければならないのか?

 東遷説を合理的に解釈し直した「遷都説」なら、移動する理由を説明できる。・・・ 卑弥呼は伊都国出身で、母国を軍事強国に育て上げた指導者だった。血みどろの倭国大乱を勝ち抜き、なるべくして倭連合国の女王に就いた。だが伊都国周辺には、彼女を女王に棚上げして時間をかせぎ、覇権を狙う強国が残っていた。政情は不安定で、足をすくわれる危険が常にあった。

 卑弥呼は天才的な閃きによって奈良盆地を選び、「ヤマト」を建設・遷都して九州を脱し、安全な場所から倭国全体をコントロールした。九州統治の要、大率と対中外交・貿易の拠点は母国の伊都国に置いた。
 新首都建設に30ヶ国を使役して消耗させ、その体力を削ぐことも怜悧な政治家・卑弥呼の狙いだった。吉備は纒向に近いから強制的に大量動員され、結果、多くの遺物が残った・・・。

▼卑弥呼の王権とヤマト王権・・・ 大和が邪馬台国を滅ぼした?
 著者は邪馬台国の南方的な習俗と大和朝廷の北方的な性格の対比を強調し、両者は別の政権で、最終的には畿内の大和朝廷が、大陸情勢の変化で後ろ盾を失った北九州の邪馬台国を圧倒し、併合したと結論する。

 だがそれでは、日本書紀が強調する神武東征や日向高千穂の出自が説明できない。
 大和朝廷がなぜ倭人伝に登場しないのかも問題になる。邪馬台国と大和朝廷が同時期に並立したなら、倭の各国を網羅的に記し、狗奴国との対立さえ伝えた倭人伝が必ず記載しただろう。著者もこの見方を意識して反論しているが、十分とは思えない。

▼神武天皇=卑弥呼
 両者の相違より、類似あるいは継続性を指摘する方が合理的だ。著者自身、「大和朝廷の政治の基本は邪馬台国のそれとかわらない」と書いている。天皇制は明らかに卑弥呼の統治スタイルを受け継いでいる。国名や首都を継承している。神器を引き継いでいる。

 なにより、ヤマト王権は系図を卑弥呼から始めている。
 書紀に記す神武天皇の贈り名はハツクニシラススメラミコト。「日本を最初に統一統治した尊い方」は一人しかいず、倭人伝はそれが女王・卑弥呼だと伝える。だから神武=卑弥呼なのだ。
 東征伝説は遷都事業が頑強な抵抗を受けた記憶だ。「欠史八代」は卑弥呼王朝の2代~9代の王を指す。その期間は50~80年くらいだから、8人は過不足のない数だ。

▼卑弥呼隠蔽の理由
 長く女王の座にとどまり、倭国を発展させ統一国家に導いた天才シャーマンにしてカリスマ政治家、卑弥呼。この巨人の記憶は当然、記紀の編者にあった。しかし、記紀で卑弥呼は隠蔽され、神功皇后と暗示しておいて実は神武天皇として登場させている。何故なのか。

 10代崇神天皇の贈り名の読みは初代神武と同じだから、ヤマト王権は卑弥呼の直系ではない。卑弥呼とは同族の末裔で、宮廷クーデタにより権力奪取した指導者が新王朝の初代、崇神となったのではないか。
 卑弥呼が中国から最先端宗教の道教を採り入れ国教としたので(纒向から道教の象徴「桃」の種が大量に出土)、権力闘争は最終的に宗教争いとなり、伝統宗教派が移入派を打倒した。それが道教の祭礼首都・纒向が4世紀初めに突然放棄された理由だ。

 ヤマト王権が奇妙な形で卑弥呼・邪馬台国を隠蔽した理由はこのあたりにありそうだ。
 卑弥呼のカリスマを借りたいが宗教の遺恨がある、何とかしなければ、という焦り。さらに、あまりに偉大だった卑弥呼のタタリを怖れ、鎮めようとする気持ちの揺れ・・・ そういった複雑な感情が渦巻いている。
 卑弥呼の神器は道教の象徴である剣鏡の2種だったが、受け継いだヤマト王権は純日本的な勾玉を加え「三種の神器」としている。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2004年9月1日に日本でレビュー済み
邪馬台国論争の戦前戦後にかけての論点を整理し、邪馬台国と大和朝廷の関係を解き明かそうとした著者の視点は好感が持てる。しかし、学術的に信頼できるかというと、ずいぶんと疑問がある。専門的な部分は私は確かに疎いのではあるが、「纏向(まきむく)遺跡の文化のあり方と、仏教伝来直前に当たる6世紀はじめの大和の文化のそれとの共通点が多い事から見て、大和で急激な政権交代があったとはみられない。それゆえ、纏向遺跡を起こした首長が今日の皇室に連なると見て間違いがないであろう。」(15P)などと、ちょっと考古学をかじれば到底言えない事を平気で言っていたり(継体天皇断絶説を知らないのか)、著者が騎馬民族征服説の立場に立つのはまだいいとして、それを徹底的に批判した佐原真氏の説を紹介しないばかりか、弥生時代の権威だった佐原氏の名前が一度も登場しないような偏った学説の紹介のし方だと、この本は単なる「読み物」以外の何者でもないと判断せざるを得ない。まあ、全てが偏見に満ちた書物ではないと思うので、学説の整理には参考にはなるのであろう。
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レポート