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和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本 上 (平凡社ライブラリー) 単行本(ソフトカバー) – 2006/9/12
平川 祐弘
(著)
- 本の長さ436ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2006/9/12
- ISBN-104582765858
- ISBN-13978-4582765854
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登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2006/9/12)
- 発売日 : 2006/9/12
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 436ページ
- ISBN-10 : 4582765858
- ISBN-13 : 978-4582765854
- Amazon 売れ筋ランキング: - 588,103位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年6月6日に日本でレビュー済み
何ともすばらしい。森鴎外の視点、価値観、感性を丹念に追いながら、明治から昭和初期にかけての日本近代化の過程と特徴を浮き彫りにする。日本が西洋にどう取り組んできたかと同時に、西洋が日本をどう見てきたかについても、ヨーロッパの文学作品や演劇などを素材に、丁寧な比較検討がなされている。この、複眼・複複眼による立体的な掘り下げが、論の組み立てに深みをもたらしていて、感嘆することしきりである。鴎外の遺言についての分析が「体制派」知識人擁護であるとして、中野重治などから批判されたという後日談が「あとがき」で紹介されているが、今の感覚からすれば、著者・平川の立ち位置はリベラル中道であろう。それが保守的だとして左派から批判されるというのは、隔世の感がありますな。中野の批判自体、世代間闘争の様相を呈していて、よけいに時代を感じさせる。
2015年12月8日に日本でレビュー済み
内容が素晴らしいだけにゆったり読めないのは残念。
本来、書評は内容を論じないといけない場なのに、初歩的な内容以前の本作りのことを論じなければいけないのは申し訳ない。
本書は、行間が狭過ぎるし、天地とノドの部分の紙面余白も余裕がなさ過ぎ、文庫本という小さな本の1ページに文字を詰め込み過ぎている。改行や会話部分が多く、内容の薄い小説ならいざ知らず、改行が非常に少ない内容の濃い本書のようなものは、通勤電車での読書にはまったく不向きだ。
これは堪らん、というわけで、「日本の古本屋」というサイトで、本書の元版となった大きなサイズのものを所蔵する古書店舗を探し出し、手に入れたのだが、それが本書の上下2巻ものに対して、二段組で小さな文字で構成されており、1冊本の狭い行間に文字を詰め込み過ぎの感がまったく変わらず、せっかく内容は飛びきりいいのに、読みやすさを犠牲にした貧乏臭い紙面作りという面では変わらず、イマイチ、ゆったりした気分で読み続ける気にさせないのがどちらも難点だ。
こういう分量の大きい著書は、新装版と言えども、文庫本ではなく、幅広い判型を持つ別の叢書シリーズに入れるべきではなかったか。あるいは、文庫本なら3巻構成くらいにして、1冊あたりの行間、文字サイズをもうちょっと余裕のあるべきものにすべきだ。
理想的には、書き込みが可能なように天地左右に余白を多少設けるべきだ。なんでもかんでも文庫化して、コスト削減を最優先して、可読性を犠牲にしてまで文字を詰め込みさえすればいい、というものではない。
本来、書評は内容を論じないといけない場なのに、初歩的な内容以前の本作りのことを論じなければいけないのは申し訳ない。
本書は、行間が狭過ぎるし、天地とノドの部分の紙面余白も余裕がなさ過ぎ、文庫本という小さな本の1ページに文字を詰め込み過ぎている。改行や会話部分が多く、内容の薄い小説ならいざ知らず、改行が非常に少ない内容の濃い本書のようなものは、通勤電車での読書にはまったく不向きだ。
これは堪らん、というわけで、「日本の古本屋」というサイトで、本書の元版となった大きなサイズのものを所蔵する古書店舗を探し出し、手に入れたのだが、それが本書の上下2巻ものに対して、二段組で小さな文字で構成されており、1冊本の狭い行間に文字を詰め込み過ぎの感がまったく変わらず、せっかく内容は飛びきりいいのに、読みやすさを犠牲にした貧乏臭い紙面作りという面では変わらず、イマイチ、ゆったりした気分で読み続ける気にさせないのがどちらも難点だ。
こういう分量の大きい著書は、新装版と言えども、文庫本ではなく、幅広い判型を持つ別の叢書シリーズに入れるべきではなかったか。あるいは、文庫本なら3巻構成くらいにして、1冊あたりの行間、文字サイズをもうちょっと余裕のあるべきものにすべきだ。
理想的には、書き込みが可能なように天地左右に余白を多少設けるべきだ。なんでもかんでも文庫化して、コスト削減を最優先して、可読性を犠牲にしてまで文字を詰め込みさえすればいい、というものではない。
2013年11月10日に日本でレビュー済み
平川祐弘氏の著書を読むのは、訳書『神曲』を別にすると、駒場入学以来の59年に及ぶ学究生活の卒業論文と称する『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク−中村正直と『西国立志編』』(名古屋大学出版会、2006年)が初めてであった。その後に出版された著書は半自伝的評伝『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店、2013年)を含めて読んできたが、氏の著作の原点ともいうべき『和魂洋才の系譜』を遅ればせながら読んでみる気になった。平凡社ライブラリー版は上下2巻に分かれており、取り敢えず読了した上巻のみの感想を書いてみる。
本書が書かれたのが戦後20年を過ぎた1960年代後半であり、フランスから帰国した著者が、まだ30代後半の東大助手の時代であったことに留意しておく必要がある。全共闘運動が盛んで東大の安田講堂事件が起きた時代である。そして、著者は、「終戦を中学2年の夏に迎えたのだが、その世代に属する者の常として、戦後は軍人を嫌い、明治時代を暗い時代と思っていた云々」と正直に記している(この世代の人たちの中に未だにその当時の意識が変わらないことはよく経験するところである)。
本書は、初めは氏の博士論文を河出書房が1971年に書物化し出版したものである。森鴎外の生涯をケース・スタディの範に取り明治維新にともない喫緊の課題となった西洋文化の導入とその消化を「和魂洋才」という見地から分析・解析している。「和魂洋才」とは明治の文明開化に関係して嘗ての「和魂漢才」という言葉に因んだものであるが、精神を和においたままで才(学術、技術)を導入しようとする考えである。第一部(非西洋の近代化とその心理)ではこの辺りの事情を解析する。先進文化(才)があれば、それを導入しようとする動機はあるが、(魂)を自国に置いたままいう考えは我が国だけに限られない。この分析は詳細を極める。第二部(非西洋の近代化と人種間問題)は、日清戦争後に猖獗を極めた黄禍論に関係して論じられる。考えてみればダーウィンの『種の起源』の出版(1859年)は、鴎外のドイツ留学のわずか25年前ということになる。とにかく、著者の引用する文献の多彩さ,博覧強記ぶりとその説得力には驚くしかない。
ところで著者は『竹山道雄と昭和の時代』のなかで、竹山道雄『昭和の精神史』を評価して鴎外の『非日本食は将に其根拠を失はんとす』を引用している。今回、同様な引用が本書にあることが判った。小生には、この文書が「上からの演繹」批判に適切な材料とは思えないのだが。それはそれとして、これから下巻を読むのが楽しみである。
本書が書かれたのが戦後20年を過ぎた1960年代後半であり、フランスから帰国した著者が、まだ30代後半の東大助手の時代であったことに留意しておく必要がある。全共闘運動が盛んで東大の安田講堂事件が起きた時代である。そして、著者は、「終戦を中学2年の夏に迎えたのだが、その世代に属する者の常として、戦後は軍人を嫌い、明治時代を暗い時代と思っていた云々」と正直に記している(この世代の人たちの中に未だにその当時の意識が変わらないことはよく経験するところである)。
本書は、初めは氏の博士論文を河出書房が1971年に書物化し出版したものである。森鴎外の生涯をケース・スタディの範に取り明治維新にともない喫緊の課題となった西洋文化の導入とその消化を「和魂洋才」という見地から分析・解析している。「和魂洋才」とは明治の文明開化に関係して嘗ての「和魂漢才」という言葉に因んだものであるが、精神を和においたままで才(学術、技術)を導入しようとする考えである。第一部(非西洋の近代化とその心理)ではこの辺りの事情を解析する。先進文化(才)があれば、それを導入しようとする動機はあるが、(魂)を自国に置いたままいう考えは我が国だけに限られない。この分析は詳細を極める。第二部(非西洋の近代化と人種間問題)は、日清戦争後に猖獗を極めた黄禍論に関係して論じられる。考えてみればダーウィンの『種の起源』の出版(1859年)は、鴎外のドイツ留学のわずか25年前ということになる。とにかく、著者の引用する文献の多彩さ,博覧強記ぶりとその説得力には驚くしかない。
ところで著者は『竹山道雄と昭和の時代』のなかで、竹山道雄『昭和の精神史』を評価して鴎外の『非日本食は将に其根拠を失はんとす』を引用している。今回、同様な引用が本書にあることが判った。小生には、この文書が「上からの演繹」批判に適切な材料とは思えないのだが。それはそれとして、これから下巻を読むのが楽しみである。