1番最初に生まれた「科学」は地理だったと聴いたことがありますが、なるほど地表の場所は常に具体的に「見える化」していて、抽象化の精神に陥ることなく誰もが確かめられる「事実」の世界。つまり抽象化の
精神でごまかせるワールドではない、常に具体的で新しい表れが「場所」。広告産業が生み出すニセの景観を駆逐しよう!みたいな話でもなく、根本から接続し直そうという融和・先駆的な天才レルフさんのお話。
まず冒頭の「日本語版への序文」が、地方創生に取り組む日本人への励ましのお手紙のようで嬉しいです。
私の理解するところ、日本では「場所」や「没場所性」の性質が、他の多くの国に比べてより顕著に現れている、それは日本では産業化社会以前の「場所経験」が非常に根深いものであり、そして、工業化や都市化の影響を受けた景観がごく最近になってつくられてきたものだからである。・・外見は人を欺きかねない。
根をおろし、安らぎを感じられる「個性ある場所」に住むことを願うならば、・・私たちの多くが楽しんできた地球規模の社会と世界旅行への参加という、没場所的な自由性と引き換えにできるかどうか(つまり、経済はグローバルだけど、自然はローカル)にかかっている・・。没場所性の物質的豊かさと場所の最良の質とをつなぎあわせる地理学はあるだろうか?・・それは探求するのに十分な価値を持つ領域であろう。
第1章「場所および地理学の現象学的基礎」
①位置という考え方
場所は、空間的な広がりと「内部」と「外部」を持つ。
②場所は自然および文化的諸要素の統合体である。
各々の場所は固有の秩序、つまり特別の調和性を持ち、それがその場所を隣接の場所から識別させる。
③すべての場所はかけがえのないものではあるが、
それらは相互作用と移動の空間システムによって互いに関連している。
それらは循環構造の一部分をなす。
④場所には地域的な特色が与えられている。
それらはより大きな地域の一部分であり、かつ地域分化(ローカリゼーション)システムの中心である。
⑤場所はたえず形成され成長している。
文化的・歴史的変化とともに新しい要素が加わり、古いものが消える。独自の歴史的要素を持つ。
⑥場所は意味を持つ。
それは人間の信念によって特徴づけられる。
つまり、場所は特定の位置で育まれてきたものであり、同時に現に育まれ続けており、さらに他の場所への
”人や物質の流れ”によって結びつけられている「自然と文化の意味のある統合体」として理解できる、と、ここで議論は終了と思いきや、さらに議論は延々続き、最終章は次の↓お話にまで深まっていくのでした。
日本的な曖昧さを許さないというか、徹底性がスゴイです。
場所は抽象的な物や概念ではなく、生きられる世界の直接的に経験された現象であり、それゆえ、意味や
リアルな物体や進行しつつある活動で満たされている。それらは個人的な、または、社会的に共有された
アイデンティティの重要な源泉であり、多くの場合人々が心理的に結びついている人間存在の根源である。
場所の経験は、部屋の一部から大陸全体までのスケールをもち得るけれども、どのスケールにおいても、
場所は全体性をもつ実体であり、自然のものと人の手によるもの、および活動と機能の総合体であり、また
意図的に与えられた「意味の総合体」である。・・・ P294
地域に関する「科学的」な記述が何かクールで形式的な印象を与え、いまひとつアピールさせるものを感じさせないのは、それが第三者の説明のような没感情的な態度で書かれ、、、当面の問題解決にはそれが有効だろうが、しかし「地域性」とは、分析し説明されるというよりも、理解され、言い当てられることを待つものらしい。通常言語や数式モデルでもってしてもそれが言い当てられないのならば、文学、音楽、演劇、さらには科学的分析の俎上に乗り得ない、形式化されない個人的日常性をも含む、ヒューマニティのすべてを動員して地域理解を深めようとする可能性を「人間主義地理学」は提示しているといえよう。
P334
場所の内側性についての経験の深さは、いくつかのレベルに分けられる。・・・
最も深いレベルでは、無意識的で、もしかしたら潜在意識的でさえあるような、場所とのつながりがある。
それはあなたの「根本(ルーツ)」のある「住まい(ホーム)」であり、安全と安心の中心であり、配慮と関わりの場であり、方向づけの原点でもある。このような内側性は、個人的なものであるがまた相互主観的でもあり、多くの人が経験できるような個人的経験である。つまりそれは「場所のセンス」の本質である。
・・・
深いレベルである「実存的内側性」は、人間的なスケールと構成を持つ無意識的な場所づくりに現れる。
・・・そのような関わりに背を向ける姿勢が、直接経験よりも概念的な原則や大衆的風潮によって導かれた
環境開発への道を開くからである。要するに、関わりをもたない内側性が「没場所性」の根拠なのである。
生物学的な神経系統の発達(オートポエティック・システムらしき)のお話もチラッと出てくるのですが
そこは先送りされていて、ともあれ、「場所のセンス」を研ぎ澄ますことで、根本的なものが見えてくるぞというお話なのでした。
で、これら全体の持つエッセンスを体現した「地理的個体」、そんな場所ホントにあるの?・・あります!
拙著『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』(→amazonレヴュー参照)では、
「場所のセンス」で地方創生に取り組んでいます。
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場所の現象学: 没場所性を越えて 単行本 – 1991/9/1
- 本の長さ274ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1991/9/1
- ISBN-104480855920
- ISBN-13978-4480855923
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
著者はトロント大学の地理学者、現象学的地理学の第一人者である。この本は、景観や場所に対する人間の姿勢と経験のあり方を探ることを第一のテーマにして、場所のアイデンティティを論じ、場所のセンスと場所づくりの諸相を述べる。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1991/9/1)
- 発売日 : 1991/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 274ページ
- ISBN-10 : 4480855920
- ISBN-13 : 978-4480855923
- Amazon 売れ筋ランキング: - 652,057位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 285位地理学・地誌学
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2022年1月13日に日本でレビュー済み
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2013年4月13日に日本でレビュー済み
本編に関してはかなり、詳しくみなさん書かれているので。
個人的には本編も素晴らしいと思うのですが、最後の「訳者あとがき」も注目すべき点です。
訳者あとがきには非常に分かりやすく、これまでの地理学が歩んで来た道のりが書き示されています。
地理学に社会学のシカゴ学派的な流れが入って来る過程なども分かりやすいです。
本書を読む時には先に「訳者あとがき」から読むのも手だと思います。
個人的には本編も素晴らしいと思うのですが、最後の「訳者あとがき」も注目すべき点です。
訳者あとがきには非常に分かりやすく、これまでの地理学が歩んで来た道のりが書き示されています。
地理学に社会学のシカゴ学派的な流れが入って来る過程なども分かりやすいです。
本書を読む時には先に「訳者あとがき」から読むのも手だと思います。
2009年4月29日に日本でレビュー済み
「没場所性」(ディズニー化、博物館化、未来化など)を批判し、
「場所」の創造を求める。
場所に対する「内側」の経験と「外側」の経験、
本物の経験と偽物の経験の区別が興味深い。
「場所」論の最も体系的でコンパクトなまとめといえる。
示唆に富む良書。
トゥアンの『空間の経験』との違いを探るのも興味深い。
個人的には両者は補完的に読まれるべきと考えている。
「場所」の創造を求める。
場所に対する「内側」の経験と「外側」の経験、
本物の経験と偽物の経験の区別が興味深い。
「場所」論の最も体系的でコンパクトなまとめといえる。
示唆に富む良書。
トゥアンの『空間の経験』との違いを探るのも興味深い。
個人的には両者は補完的に読まれるべきと考えている。
2009年2月21日に日本でレビュー済み
地理学の分野以外では、レルフといえば1977年の本書、そして「没場所性」しか取り上げられないのが常だ。そして大抵次のようなタイトルの下に紹介されている――没場所性の克服、没場所性に抗して、場所の復権、云々。
そりゃぁある視点から見ればレルフのいう没場所性というのは確実に世界を覆い尽くしていくように見えたのだろう。たとえば「マクドナルド化」や「グローバリゼーション」といった言葉も同じような視点から世界を見据えている。
しかし没場所性と場所性、という単純な両極設定はすでにレルフ自身によって自己批判されていることでもある。彼(現在はTed Relph名義が多い)いわく、ベトナム戦争終結前後に書かれていた本書には、モダニズムと伝統という、今から見ればどうしようもなく単純な二分法が背後に隠されていた。現代は、少なくとも認識論的にはポストモダン、後期近代などさまざまな「モダン以降」が氾濫する時代であり、そのような時代に没場所性という、場所への感覚にこだわりすぎた概念を使うのは慎重にならねばならない、と言う。特に没場所性と誤解されがちな近代におけるモノや人の流動性の激しさが場所の感覚を損ねることはありえない、とまでレルフは言っている。
これはミクロなレベルから人々の実践や感覚を研究してきた文化人類学のほうからも提出されてきていた異論だった。
とはいえ、今となってはあまりにお気楽な近代批判・克服の道具と成り果てている「没場所性」や本書ではあるものの、レルフ自身が指摘しているように、たとえば本書で見落とされていた政治的側面、あるいはアイデンティティや場所の所有と密接に結びつく権力や排除的暴力、などといった観点から没場所性を新たな概念として構築していくこともまた、不可能ではない。
イーフー・トゥアンとともに70年代を風靡した現象学的場所論は、80年代後半以降、後期近代という自覚とともにルフェーヴル、ハーヴェイやソジャなどのマルクス主義的空間論によって押され気味の感はある(日本ではちゃんとした場所系現象学の本や翻訳が少ない。ようやく最近『場所の運命』が出た程度)。とはいえ、上記のように、批判的に、または生産的に読むことが今でもできる、そういう意味で『場所の現象学』はれっきとした「古典」であろう。
そりゃぁある視点から見ればレルフのいう没場所性というのは確実に世界を覆い尽くしていくように見えたのだろう。たとえば「マクドナルド化」や「グローバリゼーション」といった言葉も同じような視点から世界を見据えている。
しかし没場所性と場所性、という単純な両極設定はすでにレルフ自身によって自己批判されていることでもある。彼(現在はTed Relph名義が多い)いわく、ベトナム戦争終結前後に書かれていた本書には、モダニズムと伝統という、今から見ればどうしようもなく単純な二分法が背後に隠されていた。現代は、少なくとも認識論的にはポストモダン、後期近代などさまざまな「モダン以降」が氾濫する時代であり、そのような時代に没場所性という、場所への感覚にこだわりすぎた概念を使うのは慎重にならねばならない、と言う。特に没場所性と誤解されがちな近代におけるモノや人の流動性の激しさが場所の感覚を損ねることはありえない、とまでレルフは言っている。
これはミクロなレベルから人々の実践や感覚を研究してきた文化人類学のほうからも提出されてきていた異論だった。
とはいえ、今となってはあまりにお気楽な近代批判・克服の道具と成り果てている「没場所性」や本書ではあるものの、レルフ自身が指摘しているように、たとえば本書で見落とされていた政治的側面、あるいはアイデンティティや場所の所有と密接に結びつく権力や排除的暴力、などといった観点から没場所性を新たな概念として構築していくこともまた、不可能ではない。
イーフー・トゥアンとともに70年代を風靡した現象学的場所論は、80年代後半以降、後期近代という自覚とともにルフェーヴル、ハーヴェイやソジャなどのマルクス主義的空間論によって押され気味の感はある(日本ではちゃんとした場所系現象学の本や翻訳が少ない。ようやく最近『場所の運命』が出た程度)。とはいえ、上記のように、批判的に、または生産的に読むことが今でもできる、そういう意味で『場所の現象学』はれっきとした「古典」であろう。