タイトルだけみればキワモノのように思えなくもないけれど、内容はすばらしいの一語。
将軍や武家(一部町民も扱う)の代替わりに着目して、江戸時代が260年あまりもつづいた秘密の一端を解き明かしてゆきます。
著者の碩学ぶりが随所にうかがえ、紹介される豊富なエピソードも安心して読んでいられます。
読み進むうちに今までとは違う江戸時代の風景が浮かび上がるようで、これも楽しい体験でした。
歴史ファンには、また1冊、読むべき本が加わりました。これだけは間違いありません。
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お世継ぎのつくりかた 大奥から長屋まで 江戸の性と統治システム (ちくま学芸文庫 ス 5-3) 文庫 – 2010/9/8
鈴木 理生
(著)
- 本の長さ283ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2010/9/8
- ISBN-104480093206
- ISBN-13978-4480093202
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2010/9/8)
- 発売日 : 2010/9/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 283ページ
- ISBN-10 : 4480093206
- ISBN-13 : 978-4480093202
- Amazon 売れ筋ランキング: - 443,856位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,503位ちくま学芸文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、けっこう鈴木さんのファンなんですが、考証に定評ある鈴木理生さんにしては、ちょっと珍しいチョンボですねぇ。
本書188ページ・図9、『切り絵図に見る護国寺と安藤長門守下屋敷』とある「長門守屋敷」の所在地(現「御茶の水女子大」などのある敷地)を「雑司が谷村・鼠山・感応寺」の跡地としていますが、これ、まるっきりの大外れ。
たしかに「感応寺」の所在地を探すのは容易ではないと思います。
『江戸名所図会』編纂時に、「鼠山・感応寺」は存在しないため記事にありませんし、幕末期の『江戸切絵図』となると、建てられてわずか5年後、天保改革期に破却されてしまったので、やはり記載がなく、「感応寺事件」をテーマにした「松本清張」さんの小説『かげろう絵図』でも、「感応寺」が「雑司が谷村」のどこにあるのか特定できなかったらしく、行路など曖昧な記述に終始していますしね。
でも、鈴木さんが「感応寺跡」と特定している場所は、だいたい昔も今も「大塚」で、「雑司が谷村」のうちではありませんよ。
「雑司が谷村」といえば、ついつい「鬼子母神」のあたりを探してしまいますが、「雑司が谷村」の村域は現在の「山手線」を超えた西側にまで拡がっていたんです。「鼠山・感応寺」は、目白駅を降りて目白通りを西に行った最初の信号を右の入ったところ、そこに山門があり、そのさき、西武池袋線の踏切(戦争中まで『上り屋敷』という駅があった)を越えた向こう側、自由学園のあたりまで広がっていたそうなんですわ。「感応寺」を囲んでいた築地塀の跡が丸々道路になっているので、却って現在の豊島区の地図を広げてみると意外と簡単に「感応寺」の跡地は特定できます。いま「トクガワビレッジ」なんかのあるところあたり一帯ですね。
いささか差し出口ながら、このページは早いところ訂正したほうが好いのではないか。このままでは本書の記述全部が、好い加減な根拠にもとづく話ではないかと疑わしく思えてしまうことになりますな。
惜しい。
本書188ページ・図9、『切り絵図に見る護国寺と安藤長門守下屋敷』とある「長門守屋敷」の所在地(現「御茶の水女子大」などのある敷地)を「雑司が谷村・鼠山・感応寺」の跡地としていますが、これ、まるっきりの大外れ。
たしかに「感応寺」の所在地を探すのは容易ではないと思います。
『江戸名所図会』編纂時に、「鼠山・感応寺」は存在しないため記事にありませんし、幕末期の『江戸切絵図』となると、建てられてわずか5年後、天保改革期に破却されてしまったので、やはり記載がなく、「感応寺事件」をテーマにした「松本清張」さんの小説『かげろう絵図』でも、「感応寺」が「雑司が谷村」のどこにあるのか特定できなかったらしく、行路など曖昧な記述に終始していますしね。
でも、鈴木さんが「感応寺跡」と特定している場所は、だいたい昔も今も「大塚」で、「雑司が谷村」のうちではありませんよ。
「雑司が谷村」といえば、ついつい「鬼子母神」のあたりを探してしまいますが、「雑司が谷村」の村域は現在の「山手線」を超えた西側にまで拡がっていたんです。「鼠山・感応寺」は、目白駅を降りて目白通りを西に行った最初の信号を右の入ったところ、そこに山門があり、そのさき、西武池袋線の踏切(戦争中まで『上り屋敷』という駅があった)を越えた向こう側、自由学園のあたりまで広がっていたそうなんですわ。「感応寺」を囲んでいた築地塀の跡が丸々道路になっているので、却って現在の豊島区の地図を広げてみると意外と簡単に「感応寺」の跡地は特定できます。いま「トクガワビレッジ」なんかのあるところあたり一帯ですね。
いささか差し出口ながら、このページは早いところ訂正したほうが好いのではないか。このままでは本書の記述全部が、好い加減な根拠にもとづく話ではないかと疑わしく思えてしまうことになりますな。
惜しい。
2006年10月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今の常識で過去を簡単に判断してはならない、と改めて感じる。過酷な統治だけではあれほど長くは続かなかったであろう徳川体制。その秘密の一端をかいま見ることができる。特に妾の存在の意味や、武家階級はお世継ぎが男で、娘しかいない商人は婿養子をとって女系を継承したというのはなるほどと思わせ、現在の天皇制の「女帝」と「女系」の違いも考えさせる本。
2008年6月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
文章の巧拙以前に論理展開が著者の気の向くままに
右往左往急転直下するので、それについていくのに最
初はとまどいます。
また、表題に沿った記述は全体の過半にも達せず、
大きな意味ではお世継ぎ話は二の次の江戸再発見的書
物です。しかしながら、具体的かつ該博な知識をもと
に、一般化されていない江戸的論理のフレームワーク
を開陳する内容には思わず引き込まれてしまいます。
そういうことを楽しまれる向きには良い本だと思い
ます。二十年近く前に読んで感銘を受けた「東京の川
江戸の川」という本がこの方の著書だと知って驚き
ました。
江戸物著述界というのがあるとすれば特異な地位を
占める方だと思います。
右往左往急転直下するので、それについていくのに最
初はとまどいます。
また、表題に沿った記述は全体の過半にも達せず、
大きな意味ではお世継ぎ話は二の次の江戸再発見的書
物です。しかしながら、具体的かつ該博な知識をもと
に、一般化されていない江戸的論理のフレームワーク
を開陳する内容には思わず引き込まれてしまいます。
そういうことを楽しまれる向きには良い本だと思い
ます。二十年近く前に読んで感銘を受けた「東京の川
江戸の川」という本がこの方の著書だと知って驚き
ました。
江戸物著述界というのがあるとすれば特異な地位を
占める方だと思います。
2014年11月1日に日本でレビュー済み
将軍家、大名家の夜の営みや子供の育て方などがわかる!!と思って読んだので期待外れ。
文章もとても読みにくく、一冊じっくり読む気にならず。
文章もとても読みにくく、一冊じっくり読む気にならず。
2007年1月11日に日本でレビュー済み
表題通りの内容を期待して読むと物足りないかもしれません。
筆者の癖と言って構わないと思いますが、右に左に東に西に話が飛んで
飛んで飛びまくって何ともとりとめもない文章になっており、結果として
表題と関係ない話の方が印象に残るように思います。
ただしその必ずしも表題と関わりのないエピソードや知見が近世史研究の
最先端を踏まえた内容となっていまして、(性と統治システムも含む)江戸時代
入門として非常に興味深い内容になっています。
そのことを理解した上で読むのであれば非常に有用な一書になるのではないでしょうか。
筆者の癖と言って構わないと思いますが、右に左に東に西に話が飛んで
飛んで飛びまくって何ともとりとめもない文章になっており、結果として
表題と関係ない話の方が印象に残るように思います。
ただしその必ずしも表題と関わりのないエピソードや知見が近世史研究の
最先端を踏まえた内容となっていまして、(性と統治システムも含む)江戸時代
入門として非常に興味深い内容になっています。
そのことを理解した上で読むのであれば非常に有用な一書になるのではないでしょうか。
2017年9月19日に日本でレビュー済み
教科書的な歴史では決して語られることのないと思われる、性と世継ぎの問題をテーマとして多面的に扱っている興味深い本でした。
断片的には雑学として耳にはいってきていたことについて、史料をもとに詳しく書かれているのでおもしろく読み進めることができます。歴代将軍の姫君の一覧表も挙がっています。
新知識として得た事柄を順不同ですがいくつか書いてみます。
・江戸時代でも士農工商のうち士以外では女性を「お世継ぎ」にすることが主流となっていた。
・大店や老舗では婿養子が多かった。
・家康の晩年における精力絶倫ぶりは古くからいろんな本で採り上げられてきた。
・男子を産んだ妾を出した幕臣の一族は立身・加増・栄進がみられた。
・三代家光は22才までは男色一途であったが結果的には1妻6妾がいた。
断片的には雑学として耳にはいってきていたことについて、史料をもとに詳しく書かれているのでおもしろく読み進めることができます。歴代将軍の姫君の一覧表も挙がっています。
新知識として得た事柄を順不同ですがいくつか書いてみます。
・江戸時代でも士農工商のうち士以外では女性を「お世継ぎ」にすることが主流となっていた。
・大店や老舗では婿養子が多かった。
・家康の晩年における精力絶倫ぶりは古くからいろんな本で採り上げられてきた。
・男子を産んだ妾を出した幕臣の一族は立身・加増・栄進がみられた。
・三代家光は22才までは男色一途であったが結果的には1妻6妾がいた。
2010年12月5日に日本でレビュー済み
本書によると、江戸時代には「紋散らし」ということばがあったという。
母体から生まれてくる胎児には、胞衣(えな)、つまり胎盤やら膜が付いてくることがある。
当時、この胞衣には父親である男の「紋」が付いていると信じられていた。
だから、多数の男と関係のあった女が生んだ子の胞衣は、さながら「紋」を散らしたようになっている(?)。
こういう、いわゆる「シングルマザー」の女性は、現代ならば少々窮屈な生活を強いられることだろう。
だが、江戸時代、いや昭和の初期ごろまで、彼女のような女性は「おばさん」と呼ばれ、町内の相互扶助で食べて行けたという。
彼女と関係のあった地域の男達が、合同で面倒をみるのである。
いわゆる「下町人情」というような美徳の背景には、こうした異性の共有システムがあったのだ。
また、今でこそ「お家」というと男子による長子相続が当たり前のように思われるが、中・近世では女子相続が普通だったらしい。
今でも老舗の商家などでは娘の婿養子に跡を継がせることがあると聞くが、むしろそれがスタンダードだったのである。
代わりに、息子には相当の財産を渡した上で隠居させてしまう。
「バカ息子」の危険を回避し、優秀な人材(多くは奉公人から出世した手代などを婿にとる)に経営を任せるための仕組みである。
だが、どういうわけか武家政権(徳川幕府)は男子相続の制度を採用した。
この場合、男が生まれないと家が断絶してしまう。
それゆえ、正妻以外にも多数の「妾」をもうけて、相続をより確実なものにするのである。
徳川家の「御三家」というのも、本来的には危険回避のための安全装置である。
(なお、生まれた女子については、大名家との政略結婚で各地に嫁いでいった。これはこれで重要な政治システムである)
こう書くとなにか男性ばかりがムチャクチャしていたように思えるが、女性についてもかなり性的にはオープンだった。
男娼が商売をする「陰間」が江戸期を通じて七カ所設置されており、そこで性的欲望を発揮することができたのである。
陰間というのは基本的に若衆=役者であるから、「芝居見物」などというのもこうした楽しみがあったのかもしれない。
(ただし、これは庶民についての話である。武家の女性はもう少し窮屈だったと思われる。また、陰間は男色趣味の男も利用していた)
良かれ悪しかれ、日本にはこういう文化の時代が存在していたのだ。
本書を読むと、一夫一妻制というのは思いほのか歴史が浅く、それほど自明の制度でもないのだなあ、などと思いやられる。
母体から生まれてくる胎児には、胞衣(えな)、つまり胎盤やら膜が付いてくることがある。
当時、この胞衣には父親である男の「紋」が付いていると信じられていた。
だから、多数の男と関係のあった女が生んだ子の胞衣は、さながら「紋」を散らしたようになっている(?)。
こういう、いわゆる「シングルマザー」の女性は、現代ならば少々窮屈な生活を強いられることだろう。
だが、江戸時代、いや昭和の初期ごろまで、彼女のような女性は「おばさん」と呼ばれ、町内の相互扶助で食べて行けたという。
彼女と関係のあった地域の男達が、合同で面倒をみるのである。
いわゆる「下町人情」というような美徳の背景には、こうした異性の共有システムがあったのだ。
また、今でこそ「お家」というと男子による長子相続が当たり前のように思われるが、中・近世では女子相続が普通だったらしい。
今でも老舗の商家などでは娘の婿養子に跡を継がせることがあると聞くが、むしろそれがスタンダードだったのである。
代わりに、息子には相当の財産を渡した上で隠居させてしまう。
「バカ息子」の危険を回避し、優秀な人材(多くは奉公人から出世した手代などを婿にとる)に経営を任せるための仕組みである。
だが、どういうわけか武家政権(徳川幕府)は男子相続の制度を採用した。
この場合、男が生まれないと家が断絶してしまう。
それゆえ、正妻以外にも多数の「妾」をもうけて、相続をより確実なものにするのである。
徳川家の「御三家」というのも、本来的には危険回避のための安全装置である。
(なお、生まれた女子については、大名家との政略結婚で各地に嫁いでいった。これはこれで重要な政治システムである)
こう書くとなにか男性ばかりがムチャクチャしていたように思えるが、女性についてもかなり性的にはオープンだった。
男娼が商売をする「陰間」が江戸期を通じて七カ所設置されており、そこで性的欲望を発揮することができたのである。
陰間というのは基本的に若衆=役者であるから、「芝居見物」などというのもこうした楽しみがあったのかもしれない。
(ただし、これは庶民についての話である。武家の女性はもう少し窮屈だったと思われる。また、陰間は男色趣味の男も利用していた)
良かれ悪しかれ、日本にはこういう文化の時代が存在していたのだ。
本書を読むと、一夫一妻制というのは思いほのか歴史が浅く、それほど自明の制度でもないのだなあ、などと思いやられる。