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ブッダたちの仏教 (ちくま新書) 新書 – 2017/12/6
並川 孝儀
(著)
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仏教は多様な展開を含む複雑な宗教である。歴史上のブッダへ実証的にアプローチし、「仏」と「法」という二つの極から仏教をとらえなおすダイナミックな論考。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2017/12/6
- 寸法10.8 x 1 x 17.5 cm
- ISBN-104480071059
- ISBN-13978-4480071057
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2017/12/6)
- 発売日 : 2017/12/6
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 4480071059
- ISBN-13 : 978-4480071057
- 寸法 : 10.8 x 1 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 372,450位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年5月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルに「ブッダたち」とあるように仏教を俯瞰し、とりわけ上座仏教から大乗仏教への変化、浄土宗、阿弥陀仏などの解説は非常に分かりやすい。良く出来た1冊です。
2017年12月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
女人成仏についての論考は噴飯もので事実誤認だらけ。まず「提婆達多品」をきちんと読んでいるのだろうか? 五障についても、それは否定の文脈であるのにも関わらず、それを前提して社会体制に屈服した象徴のように記述するのはミスリードではなかろうか。
前半はまぁ面白く読めたが、後半になるにつれ破綻が目立ち、女人成仏の段で崩壊したように見えた。
前半はまぁ面白く読めたが、後半になるにつれ破綻が目立ち、女人成仏の段で崩壊したように見えた。
2018年1月19日に日本でレビュー済み
『ブッダたちの仏教』(並川孝儀著、ちくま新書)のおかげで、釈迦が創始した原始仏教と、その後、現れた大乗仏教との違いを、明快に理解することができました。
先ず、仏教の歴史の概略を見てみましょう。「ゴータマ・ブッダが亡くなって100年余りして仏教教団は上座部と大衆部の2つに根本分裂し、原始仏教から部派仏教の時代に入ったとされる。年代的にはアショーカ王が即位していた紀元前3世紀中頃以降には数多くの部派が興ったといわれ、歴史上には説一切有部を始めとして18とも20ともいわれる部派が存在したと伝えられている」。
「ゴータマ・ブッダの教えの解釈や研究をアビダルマというが、このことから部派仏教は別名アビダルマ仏教ともいわれるのである」。
「紀元前後頃、部派仏教の出家主義を批判しつつ、新たにゴータマ・ブッダの教えを大きく転回させた大乗仏教は、ブッダ観にも大きな展開を生む。・・・大乗仏教になると、ゴータマ・ブッダを一人の偉大な完成者としって尊崇するのは勿論のこと、何よりも彼の悟った真理(法)そのものに対する信仰が強調され、それまでの歴史的ブッダから普遍性や救済性に焦点を合わせた新たなブッダが誕生する。つまり、ゴータマ・ブッダに取って代わり崇拝と信仰の対象となる普遍なるブッダの出現である。・・・具体的にみると、『無量寿経』に説かれるように無限の光明と無限の寿命をもつ阿弥陀仏が西方極楽浄土に存在しているという他方仏の考え方が起こった。さらには、『華厳経』や密教の『大日経』、『金剛頂経』の教主として中心的尊格として説かれる毘盧遮那仏、大日如来のように、この世の十方いたるところに遍満しているブッダも説かれるようになった。こうしたブッダは数多く出現し、ゴータマ・ブッダが悟った真理そのものがブッダとして普遍化され、一方で救済者として人々の信仰の対象となったのである。一方、『法華経』のようにゴータマ・ブッダがガンジス河中流域のブッダガヤで悟りを得たのは方便であって、実際は遥か過去に悟っていて、衆生を教化し続けてきたと理解し、ゴータマ・ブッダに永遠の生命をみる、いわゆる久遠実成のブッダを唱えた立場も存在した」。この説明によって、大乗仏教の全体像が、よく分かります。大乗仏教では、時代や地域の変遷によって人々が求める理想のブッダが数多く産み出されることになったのです。
大乗仏教は、自分たちの仏教の本質をどのように主張したのでしょうか。「このように、大乗仏教の説くブッダは、ゴータマ・ブッダが悟った真理をブッダ化して普遍性と救済性を伴う存在へと大きく転換するものの、依然としてゴータマ・ブッダの教えを継承していると考え、大乗仏教の教えも仏説であると主張した。つまり、新しく創出されたいずれの大乗経典もゴータマ・ブッダの直説を継承した仏説であると位置づけたのである」。
「しかし、こうした主張に対して大乗経典は仏説ではないという立場も存在する。この大乗非仏説は、大乗経典はゴータマ・ブッダが説いた経典ではないとする考え方である」。
「大乗仏教になると、『大智度論』にみられるように三千大千世界には複数のブッダが存在するという立場をとった。いくらブッダであっても、その無量の威力と無量の神通力ですべての衆生を一人残らず救済することは不可能であるとした」。
「仏説」とは、何なのでしょうか。「『仏説』とは文字通り『ブッダの説いた教え』を意味する。この語は経典の内容がブッダの教えであるかどうかを判断する基準ともなり、また後の大乗仏教では大乗経典がブッダの教えに基づいているのか否かという論議の際の基準ともなっている重要な用語である」。
先ず、仏教の歴史の概略を見てみましょう。「ゴータマ・ブッダが亡くなって100年余りして仏教教団は上座部と大衆部の2つに根本分裂し、原始仏教から部派仏教の時代に入ったとされる。年代的にはアショーカ王が即位していた紀元前3世紀中頃以降には数多くの部派が興ったといわれ、歴史上には説一切有部を始めとして18とも20ともいわれる部派が存在したと伝えられている」。
「ゴータマ・ブッダの教えの解釈や研究をアビダルマというが、このことから部派仏教は別名アビダルマ仏教ともいわれるのである」。
「紀元前後頃、部派仏教の出家主義を批判しつつ、新たにゴータマ・ブッダの教えを大きく転回させた大乗仏教は、ブッダ観にも大きな展開を生む。・・・大乗仏教になると、ゴータマ・ブッダを一人の偉大な完成者としって尊崇するのは勿論のこと、何よりも彼の悟った真理(法)そのものに対する信仰が強調され、それまでの歴史的ブッダから普遍性や救済性に焦点を合わせた新たなブッダが誕生する。つまり、ゴータマ・ブッダに取って代わり崇拝と信仰の対象となる普遍なるブッダの出現である。・・・具体的にみると、『無量寿経』に説かれるように無限の光明と無限の寿命をもつ阿弥陀仏が西方極楽浄土に存在しているという他方仏の考え方が起こった。さらには、『華厳経』や密教の『大日経』、『金剛頂経』の教主として中心的尊格として説かれる毘盧遮那仏、大日如来のように、この世の十方いたるところに遍満しているブッダも説かれるようになった。こうしたブッダは数多く出現し、ゴータマ・ブッダが悟った真理そのものがブッダとして普遍化され、一方で救済者として人々の信仰の対象となったのである。一方、『法華経』のようにゴータマ・ブッダがガンジス河中流域のブッダガヤで悟りを得たのは方便であって、実際は遥か過去に悟っていて、衆生を教化し続けてきたと理解し、ゴータマ・ブッダに永遠の生命をみる、いわゆる久遠実成のブッダを唱えた立場も存在した」。この説明によって、大乗仏教の全体像が、よく分かります。大乗仏教では、時代や地域の変遷によって人々が求める理想のブッダが数多く産み出されることになったのです。
大乗仏教は、自分たちの仏教の本質をどのように主張したのでしょうか。「このように、大乗仏教の説くブッダは、ゴータマ・ブッダが悟った真理をブッダ化して普遍性と救済性を伴う存在へと大きく転換するものの、依然としてゴータマ・ブッダの教えを継承していると考え、大乗仏教の教えも仏説であると主張した。つまり、新しく創出されたいずれの大乗経典もゴータマ・ブッダの直説を継承した仏説であると位置づけたのである」。
「しかし、こうした主張に対して大乗経典は仏説ではないという立場も存在する。この大乗非仏説は、大乗経典はゴータマ・ブッダが説いた経典ではないとする考え方である」。
「大乗仏教になると、『大智度論』にみられるように三千大千世界には複数のブッダが存在するという立場をとった。いくらブッダであっても、その無量の威力と無量の神通力ですべての衆生を一人残らず救済することは不可能であるとした」。
「仏説」とは、何なのでしょうか。「『仏説』とは文字通り『ブッダの説いた教え』を意味する。この語は経典の内容がブッダの教えであるかどうかを判断する基準ともなり、また後の大乗仏教では大乗経典がブッダの教えに基づいているのか否かという論議の際の基準ともなっている重要な用語である」。
2017年12月15日に日本でレビュー済み
素晴らしい本 釈迦が非実在の人間だと云うのは 恐らく本当な気がする
2019年1月6日に日本でレビュー済み
原始仏教からの流れが、教科書的にそつなくまとめられてると思う。
輪廻を巡る見解が十分と言えなかったり、ガンダーラ写本以降の文献学に触れていなかったり(それゆえスッタニパータを巡る見解などは古い中村元的な見方を踏襲している)と、気になるところは散見されるが、新書という媒体でページ数を鑑みれば致し方ないところもあろう。
しかし、途中まではよかったものの、終章の「日本仏教の今」になったとたん、無責任な学者の顔が露見してずっこけてしまった。
並川は「現在の日本仏教を考えるには、危機的状況にあるという視点と、今と日本の現状にふさわしい仏教は何であるのかという視点が不可欠となろう。」(192p)と述べた上で、仏教は時代とともに変化すべきと説く。
しかしここからの数ページが実に空虚で、結局のところ並川は現状に不満を鳴らすだけでなんの具体的な提言もできていないのだ。
以下、終章の最後のパラグラフを少々長いが引用する。
――――――――――――――――――――――――
まず最初に行うべきことはきわめて当たり前のことではあるが、この日本の現代社会に生きる人々の要請に謙虚に耳を傾け、自発性と主体性によって人々の避難所となるべき寺院をつくり、僧侶を育成することではないであろうか。宗派という既存の枠組みの中から、ときとして抜け出て、新たな枠組みを模索し、コミュニティーの中核としてそこに生きる人々の苦悩とその病巣を的確に捉え、それに応えうる活動を行うことが、未来に向けた仏教改革の第一歩となるであろう。そこから、さまざまな課題と方向性が浮かび上がってくるはずである。仏教の歴史は、常にこうした時代と空間に即した改革の連続によって生じてきたものである。今に活きる教えが説かれず、今に活きる救済が実践されなければ、それはもう仏教ではない。現代の要請に応えられない仏教になったのか、それともすでに仏教でなくなったのか、というほどまでの切迫した状況を仏教関係者が危機感をもって自覚しなければ、仏教が衰退の一途を辿るのをただ見守ることになるであろう。
196P
――――――――――――――――――――――――
この結論を読んで納得する読者がどれだけいるだろうか。
昭和の体育会系教師の根性論と五十歩百歩である。
「人々の要請に謙虚に耳を傾け、自発性と主体性によって人々の避難所となるべき寺院をつくり、僧侶を育成する」というが、まさにその内容こそが問題なのではないか。
その内容を書かなくてどうする?
たとえばその内容は、オウム真理教のようなものでもいいのだろうか?
あれはあれで現代社会の人々の悩みに寄り添った(つけこんだ)結果なのだが。
もっと根本的なことを言えば、ただ現代人を救いたいのであれば仏教である必要はない。
個人個人がすぐれたカウンセラーに相談すればいいし、社会のことをどうにかするのなら政治家を育てるか、自ら政治家になればよい。
並川はあとがきでも、「いまだ「終章」の余韻が残っているのか、「日本仏教の今」についての思いを引きずっているようである。」(197p)と昂奮気味に書き始め、現代僧侶についての不満を言い立て、「僧侶とはなにか」を僧侶自身が省察することが求められていると語り、以下のように結んでいる。
――――――――――――――――――――――――
従来から現代仏教の改革が論じられてきた中で、これは抜け落ちた視点である。「僧侶論」を抜きにして仏教の改革を語ることはできないであろう。この視点は、二五〇〇年もの長き仏教の歴史に現在の仏教がどう位置づけられるかを検証することにもなろう。
200p
――――――――――――――――――――――――
やはりこの結びの言葉も弱い。
学者が肝心の「僧侶論」の中身を書かないで、僧侶論が大切だ、とだけ書くなど馬鹿げていないか?
そもそも、この手の「現代の僧侶は駄目だ論」なぞ昔からさんざん語られてきており、「抜け落ちた視点」でもなんでもないだろう。
この手のことを書くのなら、もっと具体的な提言を書かなければ意味がない。
無責任な学者の上から目線の説教にすぎない。
並川は僧侶論の重要性を唱えるよりも、まず「仏教学者論」について考えた方がいいのではないか。
仏教学者はこんな浅いことだけ書いていていいのか? と外野から野次を飛ばしたくなってしまう。
輪廻を巡る見解が十分と言えなかったり、ガンダーラ写本以降の文献学に触れていなかったり(それゆえスッタニパータを巡る見解などは古い中村元的な見方を踏襲している)と、気になるところは散見されるが、新書という媒体でページ数を鑑みれば致し方ないところもあろう。
しかし、途中まではよかったものの、終章の「日本仏教の今」になったとたん、無責任な学者の顔が露見してずっこけてしまった。
並川は「現在の日本仏教を考えるには、危機的状況にあるという視点と、今と日本の現状にふさわしい仏教は何であるのかという視点が不可欠となろう。」(192p)と述べた上で、仏教は時代とともに変化すべきと説く。
しかしここからの数ページが実に空虚で、結局のところ並川は現状に不満を鳴らすだけでなんの具体的な提言もできていないのだ。
以下、終章の最後のパラグラフを少々長いが引用する。
――――――――――――――――――――――――
まず最初に行うべきことはきわめて当たり前のことではあるが、この日本の現代社会に生きる人々の要請に謙虚に耳を傾け、自発性と主体性によって人々の避難所となるべき寺院をつくり、僧侶を育成することではないであろうか。宗派という既存の枠組みの中から、ときとして抜け出て、新たな枠組みを模索し、コミュニティーの中核としてそこに生きる人々の苦悩とその病巣を的確に捉え、それに応えうる活動を行うことが、未来に向けた仏教改革の第一歩となるであろう。そこから、さまざまな課題と方向性が浮かび上がってくるはずである。仏教の歴史は、常にこうした時代と空間に即した改革の連続によって生じてきたものである。今に活きる教えが説かれず、今に活きる救済が実践されなければ、それはもう仏教ではない。現代の要請に応えられない仏教になったのか、それともすでに仏教でなくなったのか、というほどまでの切迫した状況を仏教関係者が危機感をもって自覚しなければ、仏教が衰退の一途を辿るのをただ見守ることになるであろう。
196P
――――――――――――――――――――――――
この結論を読んで納得する読者がどれだけいるだろうか。
昭和の体育会系教師の根性論と五十歩百歩である。
「人々の要請に謙虚に耳を傾け、自発性と主体性によって人々の避難所となるべき寺院をつくり、僧侶を育成する」というが、まさにその内容こそが問題なのではないか。
その内容を書かなくてどうする?
たとえばその内容は、オウム真理教のようなものでもいいのだろうか?
あれはあれで現代社会の人々の悩みに寄り添った(つけこんだ)結果なのだが。
もっと根本的なことを言えば、ただ現代人を救いたいのであれば仏教である必要はない。
個人個人がすぐれたカウンセラーに相談すればいいし、社会のことをどうにかするのなら政治家を育てるか、自ら政治家になればよい。
並川はあとがきでも、「いまだ「終章」の余韻が残っているのか、「日本仏教の今」についての思いを引きずっているようである。」(197p)と昂奮気味に書き始め、現代僧侶についての不満を言い立て、「僧侶とはなにか」を僧侶自身が省察することが求められていると語り、以下のように結んでいる。
――――――――――――――――――――――――
従来から現代仏教の改革が論じられてきた中で、これは抜け落ちた視点である。「僧侶論」を抜きにして仏教の改革を語ることはできないであろう。この視点は、二五〇〇年もの長き仏教の歴史に現在の仏教がどう位置づけられるかを検証することにもなろう。
200p
――――――――――――――――――――――――
やはりこの結びの言葉も弱い。
学者が肝心の「僧侶論」の中身を書かないで、僧侶論が大切だ、とだけ書くなど馬鹿げていないか?
そもそも、この手の「現代の僧侶は駄目だ論」なぞ昔からさんざん語られてきており、「抜け落ちた視点」でもなんでもないだろう。
この手のことを書くのなら、もっと具体的な提言を書かなければ意味がない。
無責任な学者の上から目線の説教にすぎない。
並川は僧侶論の重要性を唱えるよりも、まず「仏教学者論」について考えた方がいいのではないか。
仏教学者はこんな浅いことだけ書いていていいのか? と外野から野次を飛ばしたくなってしまう。