中国の民主化の進展や、
中国の軍拡に対する認識が甘いと考える。
地方選挙の進展も、
共産党の支持なくしては当選できず、
軍拡も『ミリタリーバランス』の数値では、
ストックホルムのものよりも大きい数になっている。
とはいえ、
東アジア共同体はいまだ構想段階であり、
百家争鳴のなかで、
一石を投じている価値は大きい。
理想論ではなく、
日米同盟を機軸としながら、
東アジアの「英国」となって、
現実主義的観点にたった
日本の東アジア戦略を構築して欲しい。
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東アジア共同体をどうつくるか (ちくま新書 636) 新書 – 2007/1/1
進藤 榮一
(著)
- ISBN-104480063404
- ISBN-13978-4480063403
- 出版社筑摩書房
- 発売日2007/1/1
- 言語日本語
- 本の長さ270ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2007/1/1)
- 発売日 : 2007/1/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 270ページ
- ISBN-10 : 4480063404
- ISBN-13 : 978-4480063403
- Amazon 売れ筋ランキング: - 830,065位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 216位アジア・アフリカのエリアスタディ
- - 2,198位ちくま新書
- - 5,224位政治入門
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年3月28日に日本でレビュー済み
2007年1月発刊というから、11年前の著作である。数年前の民主党政権の終わりころ、鳩山由紀夫氏の民主党が「東アジア共同体」をさかんに唱え、無責任な「進歩派・リベラルメディア」が声高に後押ししていたので、少しその内容を知っておこうと思って買った本であった。ところが幸いにして民主党政権は退き、「東アジア共同体」の話題も消え去ってしまった。その間私もいろいろ取り紛れてしまい、この本も「積んドク」になっていたのを、偶然「発見」して読んでみたのであった。
著者は、開発途上国への支援として、ODAを軸とする政府開発援助を中心に据える一方で、開発途上国に経済活動で介入する民間企業の利益追求を強く警戒する。たしかに我々一般人も長らくそう理解していた。しかし平野克己が『経済大陸アフリカ』中公新書で説くのは、利益をもとめる民間企業が開発途上国に参加して、民間企業側の利便性・利益のためにCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)を重視しながら、開発途上国とウイン・ウインの関係を構築することこそが、永続性を維持し長期的に開発側にも歓迎される、という。これは開発途上国の状況を長い時間スパンにわたって観察し熟知した現場主義的研究者の鋭い指摘で、目からうろこが落ちるようなインパクトがあった。進藤榮一の開発途上国に対する眼は、「上から目線」ともいうべきすでに古い思考のようである。
著者は、「市民社会の進展・普及」が開発途上国を政治的に民主化し「改善」して、経済的に豊かさをもたらし格差を是正していく、というがこれまでの歴史的事実はいくつもの反証を示している。この書の刊行から11年経過し、中国は経済大国となったが、政治的民主化からほど遠く、国内の経済格差は甚大で、中国政府が自ら認めた国内暴動発生件数は2012年時点で年間18万件という恐るべき状態である。チベット、新疆ウィグルのみならず日本の尖閣諸島への侵略行動もますます拡大する一方である。
著者は、アジア共同体はアジアのめざましい経済発展を契機としてはじまり、共同体実現がさらなる経済成長をもたらす、と経済成長に結びつけて主張する。しかし経済はいかなる体制においても成長が連続するものではない。成長が鈍るあるいは停止したとき、共同体参加国同士で責任の押し付け合いが発生しないとは言えない。EUも、近年のゴタゴタの重要な一因は不況である。
著者が説く「市民」や「市民社会」という概念がきわめて曖昧でうさんくさい。「市民」が主導する「ろうそくデモ」が韓国に発生し現在の文在寅政権を誕生させたと報道されている。私はそのような「市民社会」は断じて望まない。わが国で前の政権を担当した菅直人も「市民社会」の主唱者であった。「市民社会」が優れているというなら、実例で示してほしい。
前掲の平野克己が指摘したことだが、アフリカに「資源の呪い」という事象がある。資源のような雇用を生まない産業で経済成長が実現すると、むしろ所得格差が著しく拡大するのである。また平野克己は、経済成長が立ち上がり人口が増加するとき、その経済成長が持続して国民全体に富が均霑するためには、前提条件として食糧の自足が必須であり、そのために農業の生産性改革が重要だとする。重要なのは貧困や経済成長の経済的・社会的諸問題を正しく把握して、適切な対処法を見つけ出して実行することであり、観念的に「市民社会」「共同体」などと唱えてもなんの意味もないのである。
著者は、ミャンマーを「軍事独裁」というだけで非難し、韓国は選挙が実施されたことで「民主主義国家」として賞揚する。これもあまりに観念的・形式的と言わざるを得ない。政治は理念や形式ではなく、結果がよくなければ国民は不幸となる。私自身2000年前後ころに、フィリピンで、インドネシアで、マルコスやスハルトを懐かしがる何人もの人々に逢った。進藤が述べることは、善意にとらえれば理想主義的、率直に言えば机上の観念論・愚論に過ぎない論点が多々ある。
そして政治的な面では、なぜそうなるのか理解できないほどに、中国に対して好意的であり、アメリカに対して否定的である。11年前でさえ中国の軍事費や二酸化炭素排出量は、進藤の言うような生易しいレベルではなかったし、現在はずっと増大している。11年前は直接的な尖閣諸島問題はまだ発生していなかったかも知れないが、すでに南シナ海のEEZ問題はあった。それに対するとらえ方も、私は進藤にまったく首肯しがたい。
11年経過した現在では、EUはイギリスの離脱が決まり、ギリシア問題などが残り、EU参加国に深く影を落とし、ギリシア首都の港湾運営権が中国に買収される事態になっている。アジアでは、北朝鮮が「日本列島を原爆で海に沈める」とその政府トップが公言する異常な事態になっている。
私は、日本であれ他の国であれ、国益にかなう範囲で、ミクロにはそれぞれの民間企業が利益を見込める範囲で、いずれの国へも積極的に入って行って活動することは望ましいと思う。進藤も言うとおり、物質的にも情報的にもグローバル化は不可逆的に進展しているので、国家の枠に止まらない活動はより重要であり必須である。国境をまたぐことができない国家の政府に代わって、活動範囲に拘束を受けない民間企業がこれまで以上に多くの役割を期待される、と平野克己が指摘する通りである。
その一方で、それぞれ国民を擁する国家という存在は、人間の個人間のような「友情」や「信頼関係」というものを、本来的に期待できないのである。したがって、グローバルな活動は常に一定の距離感をもって「撤退の可能性」を前提に行う必要がある。国家の安全保障の自律性を損なうような「共同体」なら、参加にきわめて慎重でなければならないのは当然である。
著者の進藤榮一の主張に対して、私はほとんど賛同できない。主張には賛同できなくても、感銘をうける、あるいは啓発を感じる本は多々あるが、この本には得るものがほとんどなにもなかった。
進藤榮一は、旧民主党の鳩山由紀夫とも近かったらしい。民社党が政権から早々に去ってくれて、ほんとうに幸いであった。
著者は、開発途上国への支援として、ODAを軸とする政府開発援助を中心に据える一方で、開発途上国に経済活動で介入する民間企業の利益追求を強く警戒する。たしかに我々一般人も長らくそう理解していた。しかし平野克己が『経済大陸アフリカ』中公新書で説くのは、利益をもとめる民間企業が開発途上国に参加して、民間企業側の利便性・利益のためにCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)を重視しながら、開発途上国とウイン・ウインの関係を構築することこそが、永続性を維持し長期的に開発側にも歓迎される、という。これは開発途上国の状況を長い時間スパンにわたって観察し熟知した現場主義的研究者の鋭い指摘で、目からうろこが落ちるようなインパクトがあった。進藤榮一の開発途上国に対する眼は、「上から目線」ともいうべきすでに古い思考のようである。
著者は、「市民社会の進展・普及」が開発途上国を政治的に民主化し「改善」して、経済的に豊かさをもたらし格差を是正していく、というがこれまでの歴史的事実はいくつもの反証を示している。この書の刊行から11年経過し、中国は経済大国となったが、政治的民主化からほど遠く、国内の経済格差は甚大で、中国政府が自ら認めた国内暴動発生件数は2012年時点で年間18万件という恐るべき状態である。チベット、新疆ウィグルのみならず日本の尖閣諸島への侵略行動もますます拡大する一方である。
著者は、アジア共同体はアジアのめざましい経済発展を契機としてはじまり、共同体実現がさらなる経済成長をもたらす、と経済成長に結びつけて主張する。しかし経済はいかなる体制においても成長が連続するものではない。成長が鈍るあるいは停止したとき、共同体参加国同士で責任の押し付け合いが発生しないとは言えない。EUも、近年のゴタゴタの重要な一因は不況である。
著者が説く「市民」や「市民社会」という概念がきわめて曖昧でうさんくさい。「市民」が主導する「ろうそくデモ」が韓国に発生し現在の文在寅政権を誕生させたと報道されている。私はそのような「市民社会」は断じて望まない。わが国で前の政権を担当した菅直人も「市民社会」の主唱者であった。「市民社会」が優れているというなら、実例で示してほしい。
前掲の平野克己が指摘したことだが、アフリカに「資源の呪い」という事象がある。資源のような雇用を生まない産業で経済成長が実現すると、むしろ所得格差が著しく拡大するのである。また平野克己は、経済成長が立ち上がり人口が増加するとき、その経済成長が持続して国民全体に富が均霑するためには、前提条件として食糧の自足が必須であり、そのために農業の生産性改革が重要だとする。重要なのは貧困や経済成長の経済的・社会的諸問題を正しく把握して、適切な対処法を見つけ出して実行することであり、観念的に「市民社会」「共同体」などと唱えてもなんの意味もないのである。
著者は、ミャンマーを「軍事独裁」というだけで非難し、韓国は選挙が実施されたことで「民主主義国家」として賞揚する。これもあまりに観念的・形式的と言わざるを得ない。政治は理念や形式ではなく、結果がよくなければ国民は不幸となる。私自身2000年前後ころに、フィリピンで、インドネシアで、マルコスやスハルトを懐かしがる何人もの人々に逢った。進藤が述べることは、善意にとらえれば理想主義的、率直に言えば机上の観念論・愚論に過ぎない論点が多々ある。
そして政治的な面では、なぜそうなるのか理解できないほどに、中国に対して好意的であり、アメリカに対して否定的である。11年前でさえ中国の軍事費や二酸化炭素排出量は、進藤の言うような生易しいレベルではなかったし、現在はずっと増大している。11年前は直接的な尖閣諸島問題はまだ発生していなかったかも知れないが、すでに南シナ海のEEZ問題はあった。それに対するとらえ方も、私は進藤にまったく首肯しがたい。
11年経過した現在では、EUはイギリスの離脱が決まり、ギリシア問題などが残り、EU参加国に深く影を落とし、ギリシア首都の港湾運営権が中国に買収される事態になっている。アジアでは、北朝鮮が「日本列島を原爆で海に沈める」とその政府トップが公言する異常な事態になっている。
私は、日本であれ他の国であれ、国益にかなう範囲で、ミクロにはそれぞれの民間企業が利益を見込める範囲で、いずれの国へも積極的に入って行って活動することは望ましいと思う。進藤も言うとおり、物質的にも情報的にもグローバル化は不可逆的に進展しているので、国家の枠に止まらない活動はより重要であり必須である。国境をまたぐことができない国家の政府に代わって、活動範囲に拘束を受けない民間企業がこれまで以上に多くの役割を期待される、と平野克己が指摘する通りである。
その一方で、それぞれ国民を擁する国家という存在は、人間の個人間のような「友情」や「信頼関係」というものを、本来的に期待できないのである。したがって、グローバルな活動は常に一定の距離感をもって「撤退の可能性」を前提に行う必要がある。国家の安全保障の自律性を損なうような「共同体」なら、参加にきわめて慎重でなければならないのは当然である。
著者の進藤榮一の主張に対して、私はほとんど賛同できない。主張には賛同できなくても、感銘をうける、あるいは啓発を感じる本は多々あるが、この本には得るものがほとんどなにもなかった。
進藤榮一は、旧民主党の鳩山由紀夫とも近かったらしい。民社党が政権から早々に去ってくれて、ほんとうに幸いであった。
2007年10月10日に日本でレビュー済み
本書は優れた教科書である。
日本経団連が「東アジア共同体」の構築を政府に求める提言を纏めたこの時期だからこそ今一度理解を深めたい。
欧州統合と東アジア共同体はアジアの特殊な政治のパワーバランスを踏まえた上で、同様の切り口で語れないとしているが、
ここに幾ばくかの政治を掻い潜ってつながる東アジア人共同体についての考察があれば面白かった。
日本経団連が「東アジア共同体」の構築を政府に求める提言を纏めたこの時期だからこそ今一度理解を深めたい。
欧州統合と東アジア共同体はアジアの特殊な政治のパワーバランスを踏まえた上で、同様の切り口で語れないとしているが、
ここに幾ばくかの政治を掻い潜ってつながる東アジア人共同体についての考察があれば面白かった。
2007年1月16日に日本でレビュー済み
本書は、欧州と条件の全く違うアジアでは共同体は不可能だと主張する懐疑論に対する反批判の書である。
前半では、近年のアジアの歩みを概観していく。懐疑論者の主張とは裏腹に、欧州統合の歴史から見えてくる「共通の脅威」「共通の利益」「共通の価値観」という3つの共同体形成の条件は、現在共同体形成に向けて邁進するアジアにも同様に存在するのだということがわかる。すなわち、アジア経済危機以降、ヘッジファンドのような「カジノ資本主義」の「脅威」に対する金融面での協力を皮切りに共同体への流れが推し進められてきた。投資などの分野での日本の進出が東アジアの資本主義市場を育成し、各国に「共通の利益」が認識されるようになった。また、グローバル化と情報革命は市民社会を台頭させ「共通の価値観」が醸成されつつある。本書で描かれるのは、まさに相互依存的なアジアの歴史構造である。
後半では共同体形成に向けた具体的なイシューを検討していく。安全保障は、国家安全保障だけでなく、テロや環境問題、人権までも含めた協調的な「非伝統的安全保障」の枠組みで論じられるべきとする指摘はもっともである。共同体に対する懐疑論がしばしば依拠する「中国脅威論」に対しても興味深い批判が展開されている。中国の政治・外交・軍事・国内社会を丁寧に読み解いていった結果著者は「帝国としての中国」という認識が誤りであることを論証する。
新書でありながら極めて豊富な情報量を誇り、実に読み応えがある。いわゆる「現実主義者」たちは単なる「現状追認主義」に陥る傾向があるが、本書は真に「現実」に向き合うための姿勢を教えてくれる。社会科学を学ぶ者にとって重要なことは、常に「理想」を抱きつつ複雑な「現実」と格闘し、「理想」を実現するための方策を描くことにある。そのことを改めて確認させてくれる好著であった。
前半では、近年のアジアの歩みを概観していく。懐疑論者の主張とは裏腹に、欧州統合の歴史から見えてくる「共通の脅威」「共通の利益」「共通の価値観」という3つの共同体形成の条件は、現在共同体形成に向けて邁進するアジアにも同様に存在するのだということがわかる。すなわち、アジア経済危機以降、ヘッジファンドのような「カジノ資本主義」の「脅威」に対する金融面での協力を皮切りに共同体への流れが推し進められてきた。投資などの分野での日本の進出が東アジアの資本主義市場を育成し、各国に「共通の利益」が認識されるようになった。また、グローバル化と情報革命は市民社会を台頭させ「共通の価値観」が醸成されつつある。本書で描かれるのは、まさに相互依存的なアジアの歴史構造である。
後半では共同体形成に向けた具体的なイシューを検討していく。安全保障は、国家安全保障だけでなく、テロや環境問題、人権までも含めた協調的な「非伝統的安全保障」の枠組みで論じられるべきとする指摘はもっともである。共同体に対する懐疑論がしばしば依拠する「中国脅威論」に対しても興味深い批判が展開されている。中国の政治・外交・軍事・国内社会を丁寧に読み解いていった結果著者は「帝国としての中国」という認識が誤りであることを論証する。
新書でありながら極めて豊富な情報量を誇り、実に読み応えがある。いわゆる「現実主義者」たちは単なる「現状追認主義」に陥る傾向があるが、本書は真に「現実」に向き合うための姿勢を教えてくれる。社会科学を学ぶ者にとって重要なことは、常に「理想」を抱きつつ複雑な「現実」と格闘し、「理想」を実現するための方策を描くことにある。そのことを改めて確認させてくれる好著であった。