マックス・ウェーバーは近代資本主義がなぜ西洋のプロテスタントの国々のみに発生し、その他の地域には発生しなかったのかというテーマを宗教社会学の立場から追及し、宗教社会学論集という膨大な著作を著しましたが、『儒教と道教』はその中の一部です。
1章から4章までは、「社会学的基礎」と題して、実にウェーバーらしい砂を噛むような詳細な記述が続きます。ここはかいつまんで言えば、中国には西洋と比べて資本主義が発生するには有利な部分も不利な部分もあったということを、様々な社会学的な角度から検証している部分です。退屈ではありますが、この部分がないと中国で資本主義が生まれなかった理由が実は宗教によるところが大きいという主張に対する根拠が無くなってしまいますので、ウェーバーとしては外せない部分です。何度も眠くなってしまうのを堪えながら読み進むと、5章あたりから俄然面白くなってきます。
(8章の「成果—儒教とピューリタニズム」だけ読んでも、本書のウェーバーの論点はほぼ分かりますが、山登りと同じでふもとから登った方が、山頂に着いたときの達成感が大きいというものです。頑張って1章から読みましょう。)
ウェーバーによれば、中国は官僚が支配している社会です。官僚達の関心は伝統主義的に社会の現状を維持することです。また官僚制というのは合理的なシステムです。だから彼らが信奉する儒教も彼らの持つ合理性を反映したものになりました。
官僚達は自分達の宗教を唯物論的無神論と言える所まで合理化しました。だから儒教には、超世俗的倫理的な神の概念がありませんし、西洋的な意味での祈りもありません。中国の神の概念の際立った特徴はその「非人格性」であり、旧約聖書の神(ヤーヴェ)の最も重要な属性である「怒り」とは常に無縁だったと、ウェーバーは言います。
もし、私たちに(怒りを持って)倫理的要求を突きつけてくる超越神がいなければ、人間理解も自ずと限界性を帯びてきます。人間は、神の要求に応えることの出来ない自分達の不完全さ(罪の意識)に気づくことが出来なくなります。したがって儒教には原罪の概念がありません。儒教にとって「罪」と考えられるのは、伝統主義的諸権力に対して「恭順」を示さないということだけです。また儒教は、この世を超えた救い(天国)についても知りません。だから、この世の価値観がそのまま肯定されます。物質的に裕福であることは、否定されるべき事柄でなく、むしろ道徳を促進するための最も重要な手段であると見なされます。それは、被造物の神格化ヘと結びつき、人間性の限界を乗り越えることを不可能にしてしまいました。
儒教が支配者達の宗教であるなら、その異端である道教は民衆の宗教でした。しかし道教の中心的思想も儒教と同じ現状肯定の伝統主義でした。唯一の違いは、儒教が神さえも消し去った合理主義的宗教であったのに対し、道教は迷信や呪術によって民衆を縛り付ける宗教だったことです。
合理的な儒教が非合理的な道教を払拭できなかったのには理由があります。支配者である官僚達は、民衆が「魔術の園」の中で迷信や伝統に縛られ、権力に対してものを言うことが出来ない状態でいることを歓迎したのです。また官僚たち自身も呪術を軽蔑しながらも、実際は呪術的信仰に縛られていました。このようにして儒教と道教は二つ合わせて一つの機能を持つようになりました。それは、伝統の保持と国家による支配制度の強化です。
こうして見ると、中国に於いてウェーバーの言うところの資本主義が生まれなかったのは当然ということになります。資本主義は合理性による伝統主義の打破によって生まれます。しかし、儒教の持つ合理性は、伝統主義を打ち砕くものではなかったのです。また資本主義には筋の通った倫理性が備わっていなければなりません。倫理は自分を超えた神に対する誠実さから生まれ、倫理がしっかりしているからこそ、お互いを信頼し合うことの出来る社会が生まれ、資本主義における経済活動の約束事が守られるのです。ウェーバーは儒教的世界ににおける類を見ない不正直さについて言及しています。多数に従うことが、基本的な倫理であり、彼らは人を救うために冒険をおかしません。
恐らく、こうした儒教的エートスは近代共産主義社会に移行した中国においても明らかに存在しているでしょう。もしそうだとすると現在の中国の資本主義は、どんなにお金儲けをしていたとしても、ウェーバーいうところの近代資本主義だとはいえないのです。
なんだか、こうしてウェーバーの言っていることを抜き出していると、彼の言っていることが今の日本の文化や政治の状況にも、そのままあてはまってしまうかのような気がしてきます(ある意味、日本も中国と同じ文化圏に属しているわけですね)。TPPにしろ、原発再稼働にしろ、政府の最重要課題が目先の金儲けだということはありありとしているし、ニュースを見れば偽装や贈賄が横行しています。内面的品位ではなく、外面的品位が重要ですから、政治家は歴史問題にはとても敏感で、自分達の顔(めんつ)をつぶすようなことはムキになって否定しようとしています。
権力者にとっては、民衆は魔術に捕らわれていて(現代だったら、スマホやゲームかな)政治に口出しをしないのが一番いいし、民衆はというと一部の人たちを除いては、権力者の空気を読んでばかりいて自分の意見はなにも言いません。
最近の日本政府の発言の中には「憲法の中にある自然権」は骨抜きにしてしまえといった風潮が見られますが、それも儒教の中に「神の不変の自然法」の概念がないということが関係しているのかもしれません。また、日本の公教育を見ると進化論的無神論が他の国に例を見ないほど、ドグマとして誉めそやされています。無神論としての科学が推奨される反面、政治家も民衆もなんだか変なカルトに振り回されているなどというのも、儒教や道教の影響なのかもしれません。
ウェーバーの本は、一見古くて堅苦しくて難しそうですが、今の私たちが生きている社会について、はっとさせられるようなことがたくさん書いてあります。中国のみならず日本の宗教文化に興味を持つ人や、伝統主義的な社会を乗り越えて民主的な社会を創ろうと頑張っている人たちにとっては、役立つヒントがきっと見つかるはずです。ぜひ読んでみてください。
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儒教と道教 (名著翻訳叢書) 単行本 – 1971/9/1
マックス ウェーバー
(著),
木全 徳雄
(翻訳)
ウェーバーの宗教社会学は『儒教と道教』においてその真価を発揮する。かれは中国にかんする深い造詣にもとづき、中国社会の基底にある宗教意識の質を分析し、儒教の現世的合理主義が西欧の場合と異なり、なぜ近代資本主義の発展に結びつかなかったかを解明する。博引旁証、論述が多岐にわたり難解な原著を、中国哲学専攻の訳者が達意の日本語に移し、丹念な資料検証により詳細な注と索引を付した決定訳である。巻末に訳出した『世界宗教の経済倫理』序言は適切な手引である。
- 本の長さ482ページ
- 言語日本語
- 出版社創文社出版販売
- 発売日1971/9/1
- ISBN-104423492075
- ISBN-13978-4423492079
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登録情報
- 出版社 : 創文社出版販売 (1971/9/1)
- 発売日 : 1971/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 482ページ
- ISBN-10 : 4423492075
- ISBN-13 : 978-4423492079
- Amazon 売れ筋ランキング: - 602,618位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2010年8月3日に日本でレビュー済み
日本の宗教的背景は、いろいろ考えられる。
3つに絞るとすれば、
神道、仏教、儒教だろうか。
道教についてどう考えたらいいかわからなかって、いろいろ読んでいたら本書に行き当たりました。
道 というものについて考えていくと、仏教との関係も見えてくるのかもしれない。
課題は、西洋から見るとどう見えているかだろう。
世界中で中国の存在感は大きいが、日本がどうするといいかのヒントもあるかもしれない。
3つに絞るとすれば、
神道、仏教、儒教だろうか。
道教についてどう考えたらいいかわからなかって、いろいろ読んでいたら本書に行き当たりました。
道 というものについて考えていくと、仏教との関係も見えてくるのかもしれない。
課題は、西洋から見るとどう見えているかだろう。
世界中で中国の存在感は大きいが、日本がどうするといいかのヒントもあるかもしれない。
2010年6月5日に日本でレビュー済み
大著である。しかしこれもより広範な「宗教社会学論集」の一部であって、その論集で最も有名なのが、小品「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」である。ほかには岩波文庫にもある「古代ユダヤ教」が、本書に比肩する大著ということになる。しかし、本書の内容は、案外にウェーバーの解説書などでも外されていることが多く語られていないが、紐解いてみてびっくり。内容は「儒教と道教」などというものに矮小化されるものではなく、中国社会構造論、構造史論、とでもいうべきもので、表題の内容は、本書後半になって現れる。冒頭から中国の貨幣の歴史、都市、支配構造、官僚制、租税、行政、農業制度、それらに関わる法制史、さらに教育制度、教養について等々、全社会に対する構造と史的考察が網羅される。その圧倒的な知識量、渉猟される文献量は途方もないもので、ウェーバーという人物の能力の超人性に仰天するだろう。あまりの広範さに、そもそも何の話をしているのか、ハタと忘れるほどだが、個々の内容は充実していて道に迷いながらも目移りするほどに内容は豊饒。要約だの筋を追うなどあまり難しいことを言わずに堪能したい。翻訳についていえば、たまに日本語として崩壊している場面もあるが、巨大な本であることと、ウェーバーの文章であればこういうことは仕方がないことで、しかし、むしろよどみなく流れる文章は名訳と言ってよいと思う。とにかく、超大国清国は、ウェーバー存命中存在した時空を超えた古代王朝の如きで、本書は、その圧倒的な奇怪ともいえる存在感に、超人ウェーバーが挑んだ傑作といえる。数千年の長きにわたる歴史と、およそ西欧諸国など比肩するなど馬鹿らしいほどに広大な社会。その一国一文明を把握するとはこういうことか、とウェーバーに教えられる。如上のように、経済社会的基盤から説き起こすスタイルは、マルクスの唯物史観とも思いたくなるが、叙述は多元多面的、しかし一応の「基盤」説明の後に「上部構造」=「精神」のはなしになる。儒教にも或る種の合理性を認めつつも、それをピューリタン的な現実を越えていくような「合理性」とはみないで、現状追従型の合理性とみていると思う。尤も、本書冒頭から、ウェーバーの中国への理解は、その絶対的「停滞性」に本質を見ており、その点では、ヘーゲルの「歴史哲学」、マルクスの「唯物史観」などと通じるものがある。西欧の「合理性」、「西欧近代とは何か」がウェーバーのテーマだったとすれば、それを本当に支えたのは、本書ではなかったか、と思える。本書なくして、相関的な意味で「合理性」「近代西欧」は語りようがないと思う。本書に対する批評などできる知識も能力もないが、とにかく言えるのは、できたら買って読み飛ばしてでも、一度読んでみてください、ということです。ウェーバーの既読の作品の中では、量質ともに群を抜いていると思う。
2013年7月12日に日本でレビュー済み
『儒教と道教』1916(創文社、1971年)
目 次
凡例
第一章 社会学的基礎ーーその一 都市、君侯、および神
第一節 貨幣制度
第二節 都市とギルド
第三節 近東との比較からみた君俣の行政と神の観念
第四節 中央君主のカリスマ的司祭的地位
第二章 社会学的基礎ーーその二 封建的国家と俸禄的国家
第一節 レーエン制の世襲カリスマ的性格
第二節 官僚制的統一国家の復興
第三節 中央政府と地方官吏
第四節 公共の負担ーー徭役国家と租税国家
第五節 官吏階級と徴税の一括化
第三章 社会学的基礎ーーその三 行政と農業制度
第一節 封建制度と財政制度
第二節 軍隊制度と王安石の改革の試み
第三節 国庫的農民保護と、農業制度に対するその成果
第四章 社会学的基礎ーーその四 自治、法律、および資本主義
第一節 資本主義的依存関係の欠如
第二節 氏族組織
第三節 村落の自治
第四節 経済関係の氏族的拘束
第五節 法の家産制的構造
第五章 読書人的身分
第一節 中国的ヒューマニズムの儀礼偏重主義的、行政技術傾向的性格。平和主義への転化
第二節 孔子
第三節 試験制度の発展
第四節 社会学的な教育類型のうちにおける儒教的教育の地位
第五節 読書人階級の身分的性格。封建的名誉と学生的名誉
第六節 君子理想
第七節 官吏の威信
第八節 経済政策他見解
第九節 読書人階級の政敵、スルタン制と宦官
第六章 儒教的生活指針
第一節 官僚割と教権制
第二節 自然法と形式的法論理との欠如
第三節 自然科学的思惟の欠如
第四節 儒教の本質
第五節 形而上学の無いことと儒教の内現世的性格
第六節 『礼節』の中心概念
第七節 恭順の念(孝)
第八節 経済心情と、専門家精神の拒否
第九節 君子理想
第十節 古典の意味
第十一節 正統説の史的展開
第十二節 初期の儒教の悲壮
第十三節 儒教の平和主義的傾向
第七章 正統と異端(道教)
第一節 中国における教義と儀礼
第二節 隠逸と老子
第三節 道と神秘主義
第四節 神秘主義の実際的帰結
第五節 正統と異端との学派対立
第六節 道教的長寿法
第七節 道教の教権制
第八節 中国における仏教の一般的地位
第九節 呪術の合理的体系化
第十節 道教の倫理
第一ー節 中国の正統的および異端的倫理の伝統主義的性格
第十二節 中国における宗派と異端迫害
第十三節 太平〔天国〕の乱
第十四節 発展の結果
第八章 結論ーー儒教とピューリタニズム
世界宗教の経済倫理 序言
あとがき
欧文索引
事項索引
目 次
凡例
第一章 社会学的基礎ーーその一 都市、君侯、および神
第一節 貨幣制度
第二節 都市とギルド
第三節 近東との比較からみた君俣の行政と神の観念
第四節 中央君主のカリスマ的司祭的地位
第二章 社会学的基礎ーーその二 封建的国家と俸禄的国家
第一節 レーエン制の世襲カリスマ的性格
第二節 官僚制的統一国家の復興
第三節 中央政府と地方官吏
第四節 公共の負担ーー徭役国家と租税国家
第五節 官吏階級と徴税の一括化
第三章 社会学的基礎ーーその三 行政と農業制度
第一節 封建制度と財政制度
第二節 軍隊制度と王安石の改革の試み
第三節 国庫的農民保護と、農業制度に対するその成果
第四章 社会学的基礎ーーその四 自治、法律、および資本主義
第一節 資本主義的依存関係の欠如
第二節 氏族組織
第三節 村落の自治
第四節 経済関係の氏族的拘束
第五節 法の家産制的構造
第五章 読書人的身分
第一節 中国的ヒューマニズムの儀礼偏重主義的、行政技術傾向的性格。平和主義への転化
第二節 孔子
第三節 試験制度の発展
第四節 社会学的な教育類型のうちにおける儒教的教育の地位
第五節 読書人階級の身分的性格。封建的名誉と学生的名誉
第六節 君子理想
第七節 官吏の威信
第八節 経済政策他見解
第九節 読書人階級の政敵、スルタン制と宦官
第六章 儒教的生活指針
第一節 官僚割と教権制
第二節 自然法と形式的法論理との欠如
第三節 自然科学的思惟の欠如
第四節 儒教の本質
第五節 形而上学の無いことと儒教の内現世的性格
第六節 『礼節』の中心概念
第七節 恭順の念(孝)
第八節 経済心情と、専門家精神の拒否
第九節 君子理想
第十節 古典の意味
第十一節 正統説の史的展開
第十二節 初期の儒教の悲壮
第十三節 儒教の平和主義的傾向
第七章 正統と異端(道教)
第一節 中国における教義と儀礼
第二節 隠逸と老子
第三節 道と神秘主義
第四節 神秘主義の実際的帰結
第五節 正統と異端との学派対立
第六節 道教的長寿法
第七節 道教の教権制
第八節 中国における仏教の一般的地位
第九節 呪術の合理的体系化
第十節 道教の倫理
第一ー節 中国の正統的および異端的倫理の伝統主義的性格
第十二節 中国における宗派と異端迫害
第十三節 太平〔天国〕の乱
第十四節 発展の結果
第八章 結論ーー儒教とピューリタニズム
世界宗教の経済倫理 序言
あとがき
欧文索引
事項索引