このシリーズは「概説とその中心となる思想を、わかりやすく・・・平易な記述・・・学生・生徒の参考読物として・・・」出されていることになっていて、たしかに、わかりやすいものもあったのですが、この本はひじょうに難しかったです。
哲学用語、哲学の言葉遣い、ヘーゲル、ハイデガーといった哲学に馴染んでいる人にはわかりやすいのかも知れませんが、そうでないわたしは、一応神学書を数十年読んできたのに、とても手こずりました。
けれども、わからないところは無理にわかろうとしない、わかったところには線を引く、というやり方で、なんとか最後の頁までめくりおえました。
そして、線を引いたところだけ読み返してみると、ほぼ全ページにわたって、何行かずつは線が引いてあり、再読しても理解できたので、案外わかったのかな、とも思いましたが、わかっていない部分、線を引いていない部分(の中には、わからなかった部分と、重要とは思わなかった部分が含まれます)も大きく、やはりわかっていないのかな、とも思います。
ともあれ、神とは何か、キリストとは、聖霊とは、人間とは、世界とは、救いとは、永遠のいのちとは、罪とは、人間の生きる道は何か、といったキリスト教神学の主要テーマが、哲学の言葉で言い直されていて、組織神学の入門書にもなりうるでしょう。
「ティリッヒは、哲学的言語や哲学的体系によってキリスト教の真理を象徴的に表現しようとする・・・ティリッヒは、現代の知識人にキリスト教を弁証するために、キリスト教の教義(symbol)を哲学的言語によって解釈しようと試み、その結果、哲学の問いと神学の答えの相関論を形成した・・・本書で私は、ティリッヒの初期の著作から『組織神学』の第三巻に至るまで、哲学と神学の相関論を跡づけ、ティリッヒ神学の最深層を開示しようと試みたが、はたして成功しただろうか」(p.210)。
哲学になじみのないわたしにはこの試みが成功したかどうか判断できませんが、キリスト教の表現体系を他の表現体系で言い変えるということには興味を持ちました。
わたしは高校で聖書の授業をしていますが、キリスト教を生徒にわかりやすい言葉で伝えるだけでなく、キリスト教の言っていることの中には人間が一般的に思考していることに通じることも少なくない、ということもわかってほしいからです。
さて、著者によれば、ティリッヒはどのような人なのでしょうか。断片的に引用してみます。
「ティリッヒは、神学と哲学の統合を試み、東洋の宗教を根底から理解しようと努力した稀有な学者である」(p.11)。「異なるものの統合と相関というティリッヒ生涯の課題」(p.21)。「歴史の真理は、歴史を超越するプラトン的な不変のイデアの中ではなく、矛盾する原理間の動的な闘争の中にある。これがティリッヒの根本的立場」(p.22)。
「統合」はティリッヒのキーワードのひとつかもしれません。内在と超越、有限と無限など、いくつもの対概念の統合が、本書の全般に見られます。
「神の祝福は、人間の計画がむなしくなる処に逆説的に啓示される・・・ティリッヒの神学体系を支える鍵語の一つである」(p.20)。
本書の難しい部分も、このような平易な逆説を言っているのではないか、と予測しながら読むと、そのように思えて、理解できた気になるところもあります。
「無制約者がすべてを呑み込む深淵であると同時にすべてを生み出す根底であること、また宗教の実態は無限が有限の中に切り込むことであると同時に、無限と有限を統合する境界線であることなど、同一性と差異性の同一性はティリッヒの創造的思考の端緒となった」(p.23)。
神は人間や世界をすべて包み込むが同時に人間も世界も神から生み出された、神は無限でありながら人間や世界という有限のなかに入って来る、この無限と有限、神と人間・世界を統合する境界線が宗教、「同じであること」と「異なっていること」は結局「同じである」という意味なのでしょうか・・・
「イエスの愛の倫理の中に生活の規範を見出す真の教会は資本主義と軍国主義を克服して社会主義を取り入れるべきである。なぜなら、現代というカイロス(好機)においては、無制約者(存在の深み)を表現するために、社会主義という制約された形式の使用が要請されているからである。もちろん社会主義体制と神の国は全く異なるが、特別の時(カイロス)においては、社会主義に対して決断することは、神の国に対して決断することだからである」(p.37)。「存在自体がカイロスにおいて自己を実現する処(キリストの出来事)では、人間の限界状況が自覚され、正義と愛への献身が生れるので、潜勢的(隠れた形)ではあるが、真の教会が形成される。これが宗教社会主義の本質であり」(p.38)。
社会主義体制と神の国は全く異なるが、それぞれに対する決断は同じことである、というアクロバット的な主張がなされています。これも「統合」や「同一性と差異性の同一性」の一例でしょうか。
「ティリッヒは、神学と深層心理学の学際的研究に基づいて、キリスト教の罪の赦しを「受容されること」「自己受容」と解釈した」(p.57)。
ティリッヒのこの考えは、ティリッヒのものとは意識されていなくても、ある程度普及しているように思います。むろん、罪の赦しを自己受容に完全に還元してしまうことに抵抗するキリスト教徒も少なくないと思いますが。しかし、このように、キリスト教用語である「罪の赦し」をいまや一般的に使われる「自己受容」に翻訳することは、ある場面、領域では有効だと思います。
そのほかにも、ティリッヒが神を「究極なるもの」「存在の深み」などと翻訳していることも、参考になります。
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ティリッヒ (センチュリーブックス 人と思想 135) 単行本 – 1997/11/1
大島 末男
(著)
- 本の長さ229ページ
- 言語日本語
- 出版社清水書院
- 発売日1997/11/1
- ISBN-104389411357
- ISBN-13978-4389411350
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
キリスト教の教義を哲学的言語によって解釈しようと試みたティリッヒ。彼の生涯とその思想を、当時の社会的背景に触れながら立体的に示し、神学と哲学の相関論を形成したティリッヒ神学の本質に迫る。
登録情報
- 出版社 : 清水書院 (1997/11/1)
- 発売日 : 1997/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 229ページ
- ISBN-10 : 4389411357
- ISBN-13 : 978-4389411350
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,404,290位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,275位ドイツ・オーストリアの思想
- - 1,400位神学 (本)
- - 2,734位西洋哲学入門
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2022年1月4日に日本でレビュー済み
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2021年5月9日に日本でレビュー済み
ティリッヒとの出会いは、ジョン ヒック『宗教の哲学』第四版(ちくま学芸文庫)においてであった。ヒックはティリッヒに好意的だった。しかし、イギリスの分析哲学者ジョージ・エドワード・ムーアから、「一文、いや一語でいいから私の理解できる言葉を語ってくれませんか」といわれるほど(p.25)、ティリッヒ神学は難解なので、原著の翻訳ではなく日本語の解説本、つまり本書を読むことにした。
ティリッヒには『組織神学』という代表作があるので、ティリッヒ神学は組織神学というのかと誤解をしていました。調べてみると、組織神学とはSystematic theologyの訳で、聖書をもとにして、天使について、バイブルについて、キリストについて、教会について、終末について、罪について、聖霊について、救済について などについてシステマティックに研究する神学という意味であった。
こんなことも知らない者が、本書でティリッヒに近づこうとするのは無謀かもしれないが、了解可能な範囲で学んだことを書き留めておくことにします。
1.ティリッヒ神学の立ち位置
パスカル(1623-1662)が、キリスト教の神と哲学者がいう神は関係がないと記して以来、哲学と神学は無関係であると認識されるようになった。しかし、アウグスティヌス(354-430)はプラトン哲学を用いて神学を構成し、トマス・アクィナス(1225-1274)はアリストテレス哲学を基に神学体系を築いた(p.11)。そしてティリッヒは、プロティノス(ネオプラトニズムの創始者)とドイツ観念論とハイデガーを基に神学を再構築した(p.25、102)。
① 弁証学
神学の長い歴史のなかで、キリスト教を異教社会から弁明しなければならなかった。ティリッヒ神学は異教社会、つまり今日の全世界に対してキリスト教の真理を伝えようとしている。その時の方法が弁証学である(p.11)。
本書の「Ⅰ部 ティリッヒの生涯」の各節は、「本質と実存のあいだ(p.33)」「不安と勇気のあいだ(p.48)」などと。“あいだ”という言葉を使って弁証法的に表現している。弁証学とは、相異なる事柄を対立させて思考を深める方法とでも説明できよう。
② 民主主義
ティリッヒにそんな意図はなかったかもしれないが、世界にキリスト教を擁護するのに民主主義を持ち出すのはなかなか効果的だ。ティリッヒは、「日本人は民主主義の精神を理解していない」といっていたそうだ(p.6)。「民主主義は異なる意見を持つ人々が、それにも拘わらず、正義に基づいて結合することである。....これが具体性と究極性を統合する....一神教の原理である」とある(p.6)。
③ 神話(象徴)
言葉、つまり哲学や理性では表現できないことがある。その時、神話が登場する。神話は理性の深みを表現する象徴的形式であり、....神話は存在自体を開示し、人間の自己超越を可能にするので、実存の問いと神の啓示の答えを相関させる(p.111)。神話(象徴)的方法でしか伝えられないものを伝えようとしているので、ティリッヒ神学は難しいといわれるのだろう。
2.『存在への勇気』から見えてくるもの
ティリッヒのベストセラーといえば『存在への勇気』(1952年刊)であるらしい。生きる勇気を持つことが絶対的信仰であると説かれている(p.57)。残念ながら日本では岸見一郎『嫌われる勇気』がベストセラーになっているが、ティリッヒはそんなものは勇気ではないというだろう。
存在の深み、普遍的な存在から分離し、実存に至るときの意識は一種の迷いである。実存にあるわれわれは心理的な自我であり、迷いの個別的人格である。この迷い、不安から浄化される信仰の非象徴的言明は、「神は存在そのもの」である。このティリッヒ神学の解釈はヒック『宗教の哲学』からヒントを得たものであるが、一種の汎神論ではないか。本書の著者は汎内神論、万有在神論と説明している(p.211など)。
やっとここまでたどり着いた。まだまだ山頂は遠い雲の上にある。ティリッヒの同僚「カール・バルトの神がユダヤ教の天の父なる神、三位一体の神であるのに対して、ティリッヒとハイデガーの根源的存在・存在の深みは、母なる大地や海(深淵)の信仰に根差す(p.41)」とあるのを頼りに、ティリッヒ神学を汎神論のひとつとして理解しておきたい。
ティリッヒには『組織神学』という代表作があるので、ティリッヒ神学は組織神学というのかと誤解をしていました。調べてみると、組織神学とはSystematic theologyの訳で、聖書をもとにして、天使について、バイブルについて、キリストについて、教会について、終末について、罪について、聖霊について、救済について などについてシステマティックに研究する神学という意味であった。
こんなことも知らない者が、本書でティリッヒに近づこうとするのは無謀かもしれないが、了解可能な範囲で学んだことを書き留めておくことにします。
1.ティリッヒ神学の立ち位置
パスカル(1623-1662)が、キリスト教の神と哲学者がいう神は関係がないと記して以来、哲学と神学は無関係であると認識されるようになった。しかし、アウグスティヌス(354-430)はプラトン哲学を用いて神学を構成し、トマス・アクィナス(1225-1274)はアリストテレス哲学を基に神学体系を築いた(p.11)。そしてティリッヒは、プロティノス(ネオプラトニズムの創始者)とドイツ観念論とハイデガーを基に神学を再構築した(p.25、102)。
① 弁証学
神学の長い歴史のなかで、キリスト教を異教社会から弁明しなければならなかった。ティリッヒ神学は異教社会、つまり今日の全世界に対してキリスト教の真理を伝えようとしている。その時の方法が弁証学である(p.11)。
本書の「Ⅰ部 ティリッヒの生涯」の各節は、「本質と実存のあいだ(p.33)」「不安と勇気のあいだ(p.48)」などと。“あいだ”という言葉を使って弁証法的に表現している。弁証学とは、相異なる事柄を対立させて思考を深める方法とでも説明できよう。
② 民主主義
ティリッヒにそんな意図はなかったかもしれないが、世界にキリスト教を擁護するのに民主主義を持ち出すのはなかなか効果的だ。ティリッヒは、「日本人は民主主義の精神を理解していない」といっていたそうだ(p.6)。「民主主義は異なる意見を持つ人々が、それにも拘わらず、正義に基づいて結合することである。....これが具体性と究極性を統合する....一神教の原理である」とある(p.6)。
③ 神話(象徴)
言葉、つまり哲学や理性では表現できないことがある。その時、神話が登場する。神話は理性の深みを表現する象徴的形式であり、....神話は存在自体を開示し、人間の自己超越を可能にするので、実存の問いと神の啓示の答えを相関させる(p.111)。神話(象徴)的方法でしか伝えられないものを伝えようとしているので、ティリッヒ神学は難しいといわれるのだろう。
2.『存在への勇気』から見えてくるもの
ティリッヒのベストセラーといえば『存在への勇気』(1952年刊)であるらしい。生きる勇気を持つことが絶対的信仰であると説かれている(p.57)。残念ながら日本では岸見一郎『嫌われる勇気』がベストセラーになっているが、ティリッヒはそんなものは勇気ではないというだろう。
存在の深み、普遍的な存在から分離し、実存に至るときの意識は一種の迷いである。実存にあるわれわれは心理的な自我であり、迷いの個別的人格である。この迷い、不安から浄化される信仰の非象徴的言明は、「神は存在そのもの」である。このティリッヒ神学の解釈はヒック『宗教の哲学』からヒントを得たものであるが、一種の汎神論ではないか。本書の著者は汎内神論、万有在神論と説明している(p.211など)。
やっとここまでたどり着いた。まだまだ山頂は遠い雲の上にある。ティリッヒの同僚「カール・バルトの神がユダヤ教の天の父なる神、三位一体の神であるのに対して、ティリッヒとハイデガーの根源的存在・存在の深みは、母なる大地や海(深淵)の信仰に根差す(p.41)」とあるのを頼りに、ティリッヒ神学を汎神論のひとつとして理解しておきたい。