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「私」のための現代思想 (光文社新書) 新書 – 2006/5/17
――「私」の問題を徹底的に考える
私たちが今直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの「問題」は異なっているはずです。この本は、それぞれの「私」が直面している問題を、自分で解きほぐす手助けとなることを目指しています。
直面している問題を解きほぐして解決するためには、道具が必要です。本書では、その道具として「思考」を用います。これにはいろいろなものがありますが、本書はその中から特に「現代思想」に分類される考え方や思考の枠組みを使うことにします。(本文より抜粋)
- 本の長さ262ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2006/5/17
- ISBN-104334033563
- ISBN-13978-4334033569
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商品の説明
出版社からのコメント
著者について
1961年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程単位取得満期退学。フェリス女学院大学文学部コミュニケーション学科助教授。『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書)、『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』『知った気でいるあなたのための新経済学完全理解』(以上、夏目書房)などがある。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (2006/5/17)
- 発売日 : 2006/5/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 262ページ
- ISBN-10 : 4334033563
- ISBN-13 : 978-4334033569
- Amazon 売れ筋ランキング: - 410,507位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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フェリス女学院大学文学部コミュニケーション学科教授(作品構造分析ゼミナール)。
1961年東京生まれ。1985年早稲田大学教育学部教育学科教育学専攻教育心理学専修卒業。1988年早稲田大学大学院文学研究科心理学専攻修士課程修了(発達臨床心理学専攻・三島二郎ゼミ、のち学習心理学専攻・富田達彦ゼミ)。1996年早稲田大学大学院理工学研究科電気工学専攻電子通信工学専門分野博士後期課程単位取得満期退学(医用電子工学・内山研究室)。
東京電子専門学校講師(OS、システム設計)、日本電子専門学校講師(ゲームプログラミング、ゲーム設計)、早稲田電子専門学校講師(知識情報処理システム)、(株)十印 言語研究所 嘱託翻訳者、(財)PHRFストレス科学研究所研究員、早稲田医療技術専門学校義肢装具学科講師(リハビリテーション工学)、尚美学園大学芸術情報学部情報表現学科専任講師(C言語、映像作品研究)などを経て、2004年フェリス女学院大学文学部コミュニケーション学科助教授。2007年より現職。
通産省認定第1種情報処理技術者。電子情報通信学会会員、情報処理学会会員、IEEE会員(Member)、芸術科学会会員。日本心理学会会員。電子情報通信学会「思考と言語」研究専門委員会専門委員。専門は、現代思想(特に言語哲学/分析哲学)・メディア論・情報通信工学(特に自然言語処理/テキスト分析)。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ここで論全体の要約はしないが、読み進めて第5章に入ると急に難解になる。確かに死は言及不能であり「死ねば楽になる」なんてことはない(楽というのは現象界でのことだから)のだけれども、死んでも<私>は消えないという話が魂の不滅などの観念などではないというのはやや難解であり、それこそ「読み進められない読者が多い」かもしれない。死んでも存在するのは現象を伴わない抽象的(論理的)な何かのようである。それがまだ死んでない者の心の中の観念としてある(生存者が死者の不存在を引き受ける)というだけでなく、また単に言葉ではなく「在る」というならイデア界などを連想してしまうが.... (なお言うまでもないが、イデア界とは形而上の抽象的実在の世界であり俗にいう"死後の世界"ではない)
そこは難しい問題だが、本書の優れているとことは「私」について考えながら<世界>や<社会>との相互作用の中で主体的に生きることで<世界>や<社会>をより正しくしていくという大局観を導出していくかのように読める点だと思う。そのための個別的の正しさの基盤である「超越確実性明言」は超越といいつつ神ではなくて他者からの呼びかけに基盤がある....この辺は現代的にはニューラルネットワークの機械学習を連想する人もいるかもしれない。
これらの内容が比較的コンパクトにまとめられ、また全体主義やカルトについての示唆などもあり、抽象論のようでありながら実践的で優れた書物になっている。
私たちが「自由」であるためには〈言葉〉〈価値〉〈社会〉よりももう一段上の視点に立って〈世界〉と〈物語〉を考え、束縛からの解放を模索しなければならない。私たちは〈世界〉に投げ出され、その〈世界〉の中で〈物語〉を遂行している。しかし、そのその〈世界〉の中で演じられている私は「対象化された自己」であり、本来的なものではない。この〈世界〉の内部にいながら、耽落せず、その内部から〈世界〉を変えることはできないのか。そのための積極的な手段として、著者は〈私〉と〈身体〉を挙げる。
「対象化された自己」としての〈私〉と〈身体〉の根底には、「生そのもの」としての「私の存在」がある。それは二重括弧の《私》である。それはウィトゲンシュタインのいう「超越確実性言明」によって、内側から支えられており、レヴィナスの言うような〈他者〉からの「呼びかけ」のよって外側から支えられている。
〈他者〉とは理解不可能な存在である。その〈他者〉に呼びかけに応答し、歓待することにより共同性が回復し、私たちは、誰かによってあらかじめ用意されたのではない、新たな居場所を構築する。これは〈社会〉を所有することであり、これによって〈社会〉の束縛からも解放されるのである。
以上が本書の概要であるが、テーマはタイトルにある通り「「私」のための」であり、人間という生物の主観に生じた「私」とはそもそも何なのかについて、もしくは「私」という現象について書かれたものではない。結論は至って明確であり、行きづらさを感じているのだったら、自ら行動し他者と連帯し、自分たちで自分たちの社会を作り変えて行け、といったものであり、その主張をニーチェ、フーコー、ハイデガー、リオタール、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスといった「現代思想」を使って語っている。終盤は若干ダレた感じ、最後の自殺についての議論は唐突な印象を受ける。また現象学や現代倫理学で重要な概念である「身体」についての議論が弱いとの印象も受けた。本書で紹介されている個々の哲学者の概念や考え方の紹介は丁寧でわかりやすく、著者高田明典氏の貴重な才能であると思われ、氏の他の著作も読んでみたくなった次第である。
すなわち、私はいかに生きるべきか、という問題。
倫理学と法哲学の差異は、前者が個人一人一人の問題を扱うのにたいし、後者が社会全般の問題を扱うという点がある。
本書は倫理学の本である。法哲学ならば小林和之「「おろかもの」の正義論」をオススメする。
内容は、タイトルに「現代思想」とあるように、ハイデガー、リオタール、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスなども取り扱われる。
また、言語・価値・社会による束縛、世界と物語、自己の身体、他者など、わりと抽象的な話を噛み砕いて書いている。
より具体的なテーマを扱っている倫理学としては、山口意友「正義を疑え!」がある。
第1章「「私」を縛るものは何か」だけでも読む価値は十分にある。
私は、この本は夜に1人で読んではいけない本だと思う。夜の闇は、『思索』の仮面を被ったネガティブな興奮に襲われやすい。この本は、そうした状態に近づき易い、あるいは襲われ易い心理状態を作りだす。
***
本書の目的は、哲学の根本的な問題=「私はいかに生きるか?いかに死ぬか?」の解決である(p.6)。その「問題」=「生死」を解決するのが「道具」=「思考」=「論理」=「言語(i.e. 「現代思想」の考え方と思考の枠組み)」である(p.21)。この問題が解決すれば「正しく生きる、正しく死ぬ」と言う場合の「自分の内部での正しさ」に近づき、解決できなければ問題は束縛となって「自分の自由が損なわれる」ことになる(p.29)。この「問題」=「束縛」を解決するために「闘う」(p.7)という方法を選択する場合、「武器(道具)」=「思考」=「言語」=「論理」(p.30)を用いて考えると、<私たちが「Aという事物や制度の束縛”から逃れる方法=「Aの所有者となる」こと>になる(p.31)。問題が解決した場合、私たちの「正しさ」は「超越確実性言明」が支えている(p.213)。
***
ところが、本書の最初に掲げた「問題解決の筋道」(p.9)には「超越確実性言明」としか思えない論理がある。その筋道は、“1)「問題」の外形をつかみ、大まかな「解決方法」を想定する、2)その問題を発生させている「原因や理由」を考える、3)私たちに与えられている「方法・武器」について考える、4)その「方法・武器」の使い方について考える”、である。この筋道を釈尊の「四聖諦」と比較すると面白い。1)は「苦聖諦」、2)は「集聖諦」と対応するが、3)と4)は「滅聖諦」や「道聖諦」と対応しない。つまり原因解明は釈尊に肉薄しているが、解決方法に敢えて「闘う」ことを選択したので“束縛原因の所有者となるために闘う”ことが目標となり、その手段となる「武器」に終始してしまったと思われる。著者が選択しなかった「抑圧をなくすこと・自由を回復すること(i.e. 抑圧の除去・制御)」(p.6)であれば、“束縛原因を制御できるように成長”することが目標となるので「滅聖諦」や「道聖諦」にも対応し、筋道の論理に無理がなくなると思うのだが…。
そして、“「超越確実性言明」は私たちの「正しさ」を支える”(p.213)と言うが、論理の「無限後退」を止めていた「絶対者・真理」は“絶対静止している不変の「絶対者・真理」”であり、「超越確実性言明」は“無限運動(輪廻転生)している可変の「絶対者・真理もどき」”と見分けがつきにくい。その場合は、ゼノンのパラドクスに陥るので、釈尊が批判した六師外道の4人(唯心論者、運命論者、唯物論者)と同様に、「道徳否定」を招く恐れが大きい。