無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
法解釈の言語哲学: クリプキから根元的規約主義へ 単行本 – 2006/11/10
大屋 雄裕
(著)
法は客観的に存在するものか、それともわれわれの行為によって作られるものか。法律家の果たすべき役割とは何だろうか。
法の解釈は誰がやっても同じになるのか。後期ウィトゲンシュタインを中心とした言語哲学の成果を手がかりにして、規則にしたがうこと、意昧を知ること、解釈することなどの行為の性質を検討し、法解釈をいかに理解すべきか、根本的に考える。法解釈とは正解を見つけ出す作業などではない。法的現実という人工物を作り出し、不可能を可能にしていくわれわれの行為にほかならない。
法の解釈は誰がやっても同じになるのか。後期ウィトゲンシュタインを中心とした言語哲学の成果を手がかりにして、規則にしたがうこと、意昧を知ること、解釈することなどの行為の性質を検討し、法解釈をいかに理解すべきか、根本的に考える。法解釈とは正解を見つけ出す作業などではない。法的現実という人工物を作り出し、不可能を可能にしていくわれわれの行為にほかならない。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社勁草書房
- 発売日2006/11/10
- ISBN-104326402393
- ISBN-13978-4326402397
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
大屋 雄裕(おおや たけひろ)
慶應義塾大学法学部教授。東京大学法学部卒業。同大学院法学政治学研究科助手、名古屋大学大学院法学研究科助教授・教授などを経て現職。専門は法哲学。主な著作として『法解釈の言語哲学:クリプキから根元的規約主義へ』(勁草書房、2006年)、『自由か、さもなくば幸福か?:二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩書房、2014年)、『裁判の原点:社会を動かす法学入門』(河出書房新社、2018年)。
慶應義塾大学法学部教授。東京大学法学部卒業。同大学院法学政治学研究科助手、名古屋大学大学院法学研究科助教授・教授などを経て現職。専門は法哲学。主な著作として『法解釈の言語哲学:クリプキから根元的規約主義へ』(勁草書房、2006年)、『自由か、さもなくば幸福か?:二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』(筑摩書房、2014年)、『裁判の原点:社会を動かす法学入門』(河出書房新社、2018年)。
登録情報
- 出版社 : 勁草書房 (2006/11/10)
- 発売日 : 2006/11/10
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 240ページ
- ISBN-10 : 4326402393
- ISBN-13 : 978-4326402397
- Amazon 売れ筋ランキング: - 613,393位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年10月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
言語哲学の本として読むよりも法哲学、とりわけ解釈方法論の本として読むと満足な記述。ただ、根源的規約主義をしっかり展開して支持している点は、言語哲学としてもかなり面白い。この本の問題提起と解答は今でも法哲学・言語哲学で重要。
2013年2月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は言語哲学や分析哲学の書ではなく法哲学書です。法解釈とは何か、法解釈はどうあるべきかという法律家の切実な問いに答えることを目的として記された著作です。
それゆえ、ウィトゲンシュタイン+α=クリプキという文脈ではなく、ケルゼンorハートvsドゥオーキンという文脈で読むことで初めて、この書の真価が理解できると考えます。
判事の意見が一致せず多数決で判決が決まることは日常茶飯事です。ここから、法解釈は本質的に多義的なものであり、唯一無二の正解など存在しない、それゆえ判事には(相当な)解釈の裁量があるという見解が出てきます。しかしドゥオーキンはそれに反対します。正解は存在するが現実の判事はそれに合意できないだけだと主張します。そして、架空の理想的判事ヘラクレスはあらゆる裁判で正解を導き出すと想定します。果たしてドゥオーキンの考えは正しいでしょうか。
こういう問題意識を持って読めば、本書が、クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書、1983)を手掛かりとして、ウィトゲンシュタインとクリプキの考察を援用して、法解釈に対する根元的規約主義という独創的な視点を見い出した著作として高く評価されます。著者の根元的規約主義からすれば、ヘラクレスは(理想的な状況においてすら)存在しない、しかしながら法実務家はヘラクレスの存在を想定すべきである、という結論になると(評者は)理解します。
評者の意見が著者の意図を正しく理解しているか、著者の意見が正しいかどうかは分かりません。それでも本書を法哲学書、法解釈に関する難題を解明するための著作として読めば実にエキサイティングです。
ただ、その意味で、本書の書名はいささかミスリーディングです(そのため★一つマイナスしました)。この書名ではどうしても読者は分析哲学や言語哲学の著作として読みたくなります。書店員も勘違いするでしょう。本書は多くの書店で法哲学ではなく分析哲学や言語哲学のコーナーに陳列されています。また、残念ながら著者自身が聊か哲学の方向に流れ過ぎており、本書の主眼である法解釈から分析哲学的問題の解明という方向にベクトルがずれている感も否めません。分析哲学書として捉えると確かに他の評者の方が述べておられる通り凡庸で、法を題材にしたウィトゲンシュタインやクリプキの分かりにくい解説書ということになってしまうでしょう。しかし、本書はあくまでも法解釈という現代法哲学の主要課題に、ウィトゲンシュタインやクリプキを援用して挑んだ著作です。ウィトゲンシュタインとクリプキは主役ではなく、あくまでも脇役です。そして想定されている読者は分析哲学に興味を持つ者よりも法学者や法実務家、それを目指す学生や法学に興味持つ読者です。そのことを念頭に置いて読めばとても良い本だと理解できるでしょう。
それゆえ、ウィトゲンシュタイン+α=クリプキという文脈ではなく、ケルゼンorハートvsドゥオーキンという文脈で読むことで初めて、この書の真価が理解できると考えます。
判事の意見が一致せず多数決で判決が決まることは日常茶飯事です。ここから、法解釈は本質的に多義的なものであり、唯一無二の正解など存在しない、それゆえ判事には(相当な)解釈の裁量があるという見解が出てきます。しかしドゥオーキンはそれに反対します。正解は存在するが現実の判事はそれに合意できないだけだと主張します。そして、架空の理想的判事ヘラクレスはあらゆる裁判で正解を導き出すと想定します。果たしてドゥオーキンの考えは正しいでしょうか。
こういう問題意識を持って読めば、本書が、クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書、1983)を手掛かりとして、ウィトゲンシュタインとクリプキの考察を援用して、法解釈に対する根元的規約主義という独創的な視点を見い出した著作として高く評価されます。著者の根元的規約主義からすれば、ヘラクレスは(理想的な状況においてすら)存在しない、しかしながら法実務家はヘラクレスの存在を想定すべきである、という結論になると(評者は)理解します。
評者の意見が著者の意図を正しく理解しているか、著者の意見が正しいかどうかは分かりません。それでも本書を法哲学書、法解釈に関する難題を解明するための著作として読めば実にエキサイティングです。
ただ、その意味で、本書の書名はいささかミスリーディングです(そのため★一つマイナスしました)。この書名ではどうしても読者は分析哲学や言語哲学の著作として読みたくなります。書店員も勘違いするでしょう。本書は多くの書店で法哲学ではなく分析哲学や言語哲学のコーナーに陳列されています。また、残念ながら著者自身が聊か哲学の方向に流れ過ぎており、本書の主眼である法解釈から分析哲学的問題の解明という方向にベクトルがずれている感も否めません。分析哲学書として捉えると確かに他の評者の方が述べておられる通り凡庸で、法を題材にしたウィトゲンシュタインやクリプキの分かりにくい解説書ということになってしまうでしょう。しかし、本書はあくまでも法解釈という現代法哲学の主要課題に、ウィトゲンシュタインやクリプキを援用して挑んだ著作です。ウィトゲンシュタインとクリプキは主役ではなく、あくまでも脇役です。そして想定されている読者は分析哲学に興味を持つ者よりも法学者や法実務家、それを目指す学生や法学に興味持つ読者です。そのことを念頭に置いて読めばとても良い本だと理解できるでしょう。
2009年10月23日に日本でレビュー済み
扱われている言語哲学のトピックが古く、内容も凡庸の感が否めない。
表現も法学者らしく煩瑣で読みやすいとはいいがたい。
ともあれ、著者は優秀な研究者であるようなので今後に期待したいと思う。
表現も法学者らしく煩瑣で読みやすいとはいいがたい。
ともあれ、著者は優秀な研究者であるようなので今後に期待したいと思う。