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東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章 単行本 – 2008/12/11
山本 史郎
(著)
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購入オプションとあわせ買い
村岡花子の「アン」名訳から省かれていたある一節の理由、「ホビット」の英語遊びをどう翻訳するか、「ジェイン・エア」ふたつの映画化を比べるとわかってくる小説の狙い、など、興味深い切り口から、英文学の読み方の深いところにせまった、痛快な東大講義。
- ISBN-104130830511
- ISBN-13978-4130830515
- 出版社東京大学出版会
- 発売日2008/12/11
- 言語日本語
- 本の長さ224ページ
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商品の説明
レビュー
今年(2008年)は、モンゴメリー『赤毛のアン』刊行100周年、関連書や「完全版」翻訳の出版が相次ぎました。「アニメで見たので、なんとなく知っている」だけという方は、ぜひ実際にテキストに触れてみてください。本書「東大の教室で…」を併せて読むと、楽しさ倍増(当社比?)。文学というものがどんな技やシカケで読者を待っているか、とてもよく分かってきます。【担当編集者】 --担当編集者
登録情報
- 出版社 : 東京大学出版会 (2008/12/11)
- 発売日 : 2008/12/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 224ページ
- ISBN-10 : 4130830511
- ISBN-13 : 978-4130830515
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,172,013位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 13,016位英米文学研究
- カスタマーレビュー:
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2021年6月27日に日本でレビュー済み
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2009年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「赤毛のアン」がタイトルに含まれているのに興味をそそられて、読んでみた。
私は、子どもの頃以来、少なくとも5回は「赤毛のアン」を読んだが、当初はアンに感情移入しながら読んでいたのが、いつしかマリラの気持ちが良く理解できるようになり、一番好きな登場人物になった。本書は、そのマリラの変化成長を取り上げていて、そのとらえ方に共感できる。
また、英文学では、登場人物がその物語の中で、精神的に変化成長していく「自己発見のパターン」があると言う。
これが、私が英文学好きである理由ではないかと思った。
さらに、「高慢と偏見」では、語り手と視点、「大いなる遺産」では、視点の変化・転換、そして「ジェイン・エア」では、映画化の工夫を対比させて、筋立てをどう解釈するかなどの問題を、平易に解説していて、おもしろかった。
読みながら、自分なりの考えも浮かんできて、本当に講義を受けているようだった。
私は、子どもの頃以来、少なくとも5回は「赤毛のアン」を読んだが、当初はアンに感情移入しながら読んでいたのが、いつしかマリラの気持ちが良く理解できるようになり、一番好きな登場人物になった。本書は、そのマリラの変化成長を取り上げていて、そのとらえ方に共感できる。
また、英文学では、登場人物がその物語の中で、精神的に変化成長していく「自己発見のパターン」があると言う。
これが、私が英文学好きである理由ではないかと思った。
さらに、「高慢と偏見」では、語り手と視点、「大いなる遺産」では、視点の変化・転換、そして「ジェイン・エア」では、映画化の工夫を対比させて、筋立てをどう解釈するかなどの問題を、平易に解説していて、おもしろかった。
読みながら、自分なりの考えも浮かんできて、本当に講義を受けているようだった。
2009年1月2日に日本でレビュー済み
赤毛のアンを原書で読んでいて、あれ、翻訳では気が付かなかったこと、翻訳と違う印象を持ったところが何箇所かありました。
WEBに掲載されている無料の朗読をパソコンで再生しながら、WEBに掲載されている無料の文章を見ていました。
最初の3章のタイトルが、レイチェルが驚いた、マシューが驚いた、マリラが驚いたと、韻を踏んでいることに気がつきました。
翻訳でも努力しているが、日本語で読んでいると気が付かない部分と、本書が指摘しているような翻訳されていない部分とがありました。
残念なのは、本書がすべての赤毛のアンの朗読で気が付いた部分を掲載するのではなく、他の文学の翻訳されていない部分に横展開している点です。
個人的には、赤毛のアンをもっと深く総ざらえして欲しかったかもしれません。
ps.
赤毛のアンの前半は、講談社の文庫になっている赤毛のアンを使っていました。
理由としては、小さくて、文字が見やすいためです。
後半は続として出版されたのに、なぜか絶版になっています。
復刊ドットコムに登録しました。再販を期待しています。
WEBに掲載されている無料の朗読をパソコンで再生しながら、WEBに掲載されている無料の文章を見ていました。
最初の3章のタイトルが、レイチェルが驚いた、マシューが驚いた、マリラが驚いたと、韻を踏んでいることに気がつきました。
翻訳でも努力しているが、日本語で読んでいると気が付かない部分と、本書が指摘しているような翻訳されていない部分とがありました。
残念なのは、本書がすべての赤毛のアンの朗読で気が付いた部分を掲載するのではなく、他の文学の翻訳されていない部分に横展開している点です。
個人的には、赤毛のアンをもっと深く総ざらえして欲しかったかもしれません。
ps.
赤毛のアンの前半は、講談社の文庫になっている赤毛のアンを使っていました。
理由としては、小さくて、文字が見やすいためです。
後半は続として出版されたのに、なぜか絶版になっています。
復刊ドットコムに登録しました。再販を期待しています。
2021年2月11日に日本でレビュー済み
「多読」系の英文読みこなしから遠い位置の英文の読み方の本です。アンはあまり関係ない。
原文で読みたい理由は勿論、翻訳者ではなく原著者の意見をもっと良く知りたいから。そしてもっと読みたいから。
多読でも、精読でも、著者の背景、時代の背景、そして書かれた目的を知るのがもっと良く知るキーであることには重要であることが再確認出来て良かったです。
でも、解釈には賛成できないな。フロドーが泥棒呼ばわりされているのは、必然的だと思うし、マリアは、改心したとは賛成できない。たぶん、この本の著者山本さんは、そのような多様な考えを持つのを期待しているのだろう。(と勝手に信じたい)
マリアは、信心に重点を置くタイプの人なので、人前では楽しまない。他人には過剰に心を見せない。だからと言って絶対に楽しまないわけでも心が無いわけではない。人前では慎み深くても、家族の輪の中では違う。アンを預かっていたのだが、マシューの死を悲しむ様子を見て、アンも家族なんだ とはじめて認識したのだ。
クリスマス・キャロルに関しては、スクルージはキリスト教徒なのか昔から気になっている。金銭的な富にこだわる姿は、ディケンズの理想としている姿とは一致しない。スクルージは、始め盲目で貧しく、正しく見ることで真に豊かになるのだ。... みたいな読み方を引き出さなくていいの?
原文で読みたい理由は勿論、翻訳者ではなく原著者の意見をもっと良く知りたいから。そしてもっと読みたいから。
多読でも、精読でも、著者の背景、時代の背景、そして書かれた目的を知るのがもっと良く知るキーであることには重要であることが再確認出来て良かったです。
でも、解釈には賛成できないな。フロドーが泥棒呼ばわりされているのは、必然的だと思うし、マリアは、改心したとは賛成できない。たぶん、この本の著者山本さんは、そのような多様な考えを持つのを期待しているのだろう。(と勝手に信じたい)
マリアは、信心に重点を置くタイプの人なので、人前では楽しまない。他人には過剰に心を見せない。だからと言って絶対に楽しまないわけでも心が無いわけではない。人前では慎み深くても、家族の輪の中では違う。アンを預かっていたのだが、マシューの死を悲しむ様子を見て、アンも家族なんだ とはじめて認識したのだ。
クリスマス・キャロルに関しては、スクルージはキリスト教徒なのか昔から気になっている。金銭的な富にこだわる姿は、ディケンズの理想としている姿とは一致しない。スクルージは、始め盲目で貧しく、正しく見ることで真に豊かになるのだ。... みたいな読み方を引き出さなくていいの?
2009年1月4日に日本でレビュー済み
本書の4章と5章では、原文と日本語訳から「赤毛のアン」を比較考察している。
原文では37章のマシュウの死後、マリラはアンに、今までつらくあたってきたが本当はマシュウと同じくらいアンのことを愛していたのだと、心の中を素直に告白している。しかし新潮文庫でおなじみの村岡花子の翻訳ではこの部分はカットされている。なぜこのようなことがおこったのだろうか。
E.M.フォースターは「小説の諸相」の中で、小説の登場人物をただひとつの性質である「フラット」と、性格づけが一元的でなく発展性のある「ラウンド」という二つに分類していると著者は紹介している。
村岡花子はマリラを、子供の物語によく出てくる「主人公をいじめるこわいおばあさん」のままにしておきたかった。つまり「フラット」な人物にしておきたかった。だからマリラが最後に「いいひと」になってもらっては困るのだった。それで最後の告白をカットしたと著者は推測する。
一方で原作ではマリラはアンと接するうちに人間的にだんだんと変化していくラウンドな人物であった。
つまり日本語で読む「赤毛のアン」は、アンの成長物語であるのに対し、原典の「Anne of Green Gables」は、アンと接することで「マリラが精神的に大きく成長する物語」であると著者は結論付ける。
村岡花子のしたことは翻訳者としては行き過ぎであったと私は思う。しかしマリラが頑固なままであったからこそ、日本でこれだけ「赤毛のアン」が読まれてきたともいえる。原文を忠実に訳した方がよかったのかどうか、判断が難しいところだ。
原文では37章のマシュウの死後、マリラはアンに、今までつらくあたってきたが本当はマシュウと同じくらいアンのことを愛していたのだと、心の中を素直に告白している。しかし新潮文庫でおなじみの村岡花子の翻訳ではこの部分はカットされている。なぜこのようなことがおこったのだろうか。
E.M.フォースターは「小説の諸相」の中で、小説の登場人物をただひとつの性質である「フラット」と、性格づけが一元的でなく発展性のある「ラウンド」という二つに分類していると著者は紹介している。
村岡花子はマリラを、子供の物語によく出てくる「主人公をいじめるこわいおばあさん」のままにしておきたかった。つまり「フラット」な人物にしておきたかった。だからマリラが最後に「いいひと」になってもらっては困るのだった。それで最後の告白をカットしたと著者は推測する。
一方で原作ではマリラはアンと接するうちに人間的にだんだんと変化していくラウンドな人物であった。
つまり日本語で読む「赤毛のアン」は、アンの成長物語であるのに対し、原典の「Anne of Green Gables」は、アンと接することで「マリラが精神的に大きく成長する物語」であると著者は結論付ける。
村岡花子のしたことは翻訳者としては行き過ぎであったと私は思う。しかしマリラが頑固なままであったからこそ、日本でこれだけ「赤毛のアン」が読まれてきたともいえる。原文を忠実に訳した方がよかったのかどうか、判断が難しいところだ。