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日本型資本主義-その精神の源 (中公新書 2502) 新書 – 2018/8/17
寺西 重郎
(著)
長期にわたって停滞を続ける日本経済。産業革命を経験することなく短期間で高度経済成長を実現したにもかかわらず、混迷から抜け出せないのはなぜか。本書ではその解明のために歴史を繙き、経済システムを支える日本人の「資本主義の精神」を探究。強欲な金儲け主義への嫌悪感、ものづくりや品質の重視、個人主義ではなく集団行動の重視など、欧米はもとより、中国・韓国など東アジア諸国とも異なる特質を明らかにし、現代日本のシステム改革への道筋を示す。
- 本の長さ281ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2018/8/17
- 寸法11.1 x 1.3 x 17.4 cm
- ISBN-104121025024
- ISBN-13978-4121025029
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商品の説明
著者について
寺西重郎
一橋大学名誉教授。1942年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了。一橋大学経済研究所教授・所長、同大学副学長などを歴任。紫綬褒章受章、日本学士院賞受賞。著書に『日本の経済発展と金融』(日経・経済図書文化賞、エコノミスト賞、大平正芳記念賞特別賞)、『工業化と金融システム』『経済開発と途上国債務』『日本の経済システム』『戦前期日本の金融システム』『経済行動と宗教』『歴史としての大衆消費社会』などがある。
一橋大学名誉教授。1942年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了。一橋大学経済研究所教授・所長、同大学副学長などを歴任。紫綬褒章受章、日本学士院賞受賞。著書に『日本の経済発展と金融』(日経・経済図書文化賞、エコノミスト賞、大平正芳記念賞特別賞)、『工業化と金融システム』『経済開発と途上国債務』『日本の経済システム』『戦前期日本の金融システム』『経済行動と宗教』『歴史としての大衆消費社会』などがある。
登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2018/8/17)
- 発売日 : 2018/8/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 281ページ
- ISBN-10 : 4121025024
- ISBN-13 : 978-4121025029
- 寸法 : 11.1 x 1.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 419,928位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,837位中公新書
- - 42,620位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年9月25日に日本でレビュー済み
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読み終われば納得できる点も多々あるのですが、宗教の話が多く、難解です。
2023年9月23日に日本でレビュー済み
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マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にインスパイアされた書で、ウェーバーにあやかるならば、本書は『鎌倉新仏教の倫理と日本型資本主義の精神』と呼んでもいいくらいである。したがって、本書では「日本型資本主義」がどういうものかではなく、日本型資本主義を形作る「精神の源」とは何かを考察することを目的としており、内容的には経済そのものではなく、思想史や宗教社会学に近いと言える。著者が「大きな物語」と言うようにスケールの大きな著作である。
ウェーバーによれば、英国や米国に代表される西洋において資本主義が勃興し、発展した背景にはキリスト教(特にプロテスタンティズム)に根源をもつ「禁欲的な職業精神」があった。では、非キリスト教国である日本に資本主義が浸透し、それが発展しえたのかという疑問に、著者は「鎌倉新仏教」由来の「職業的求道精神」に基づく「道徳律」が江戸時代に確立し進化した点に答えを求めた。これが、言ってみれば、日本の「資本主義の精神」であり、それが、経済取引における信頼醸成を促す結果、取引コストの劇的な引き下げを通じて、経済の持続的成長をもたらす基盤となった。この「資本主義の精神」が江戸時代に形成されていたからこそ、日本では明治以降において西洋資本主義を受容し、移植することができたのである。このように西洋と日本には資本主義を発展させうる「精神」がともに存在したわけが、当然ながら、キリスト教と仏教を根源とする互いの精神には根本的な差異もあるわけであって、この差異が、西洋資本主義とは異なる日本型資本主義(銀行中心の金融システム、人格と一体化した労働市場等)の独自の特徴を形作ることになる、という。
20世紀初頭のウェーバーの時代には、西洋資本主義が普遍的と考えられた。その後、日本が資本主義に適応し、先進国になったことは西洋に衝撃を与えた。とはいえ、90年代まではあくまでも西洋が普遍で、日本は特殊の位置付けが続いた。だが、1990年代以降、グローバリゼーションの中で中国が資本主義を受容し、大国として発展、台頭してくる。著者は、中国の台頭の背景には「儒教由来の資本主義の精神」があるとみており、中東イスラム諸国などを含めて、1990年代以降、異なるバックボーンをもつ「異種資本主義の精神の相克と調整・共存の時代に入った」と結論する。その結果、西洋型資本主義の普遍性は揺らぎ、次第に相対化していくだろう。そして、西洋型資本主義において形成され、普遍化されてきた自由・民主主義・人権といった価値も、異種資本主義の精神の相克の中で変容を迫られるといった、パラダイムシフトが生じる可能性もあるのかもしれない。
ウェーバーによれば、英国や米国に代表される西洋において資本主義が勃興し、発展した背景にはキリスト教(特にプロテスタンティズム)に根源をもつ「禁欲的な職業精神」があった。では、非キリスト教国である日本に資本主義が浸透し、それが発展しえたのかという疑問に、著者は「鎌倉新仏教」由来の「職業的求道精神」に基づく「道徳律」が江戸時代に確立し進化した点に答えを求めた。これが、言ってみれば、日本の「資本主義の精神」であり、それが、経済取引における信頼醸成を促す結果、取引コストの劇的な引き下げを通じて、経済の持続的成長をもたらす基盤となった。この「資本主義の精神」が江戸時代に形成されていたからこそ、日本では明治以降において西洋資本主義を受容し、移植することができたのである。このように西洋と日本には資本主義を発展させうる「精神」がともに存在したわけが、当然ながら、キリスト教と仏教を根源とする互いの精神には根本的な差異もあるわけであって、この差異が、西洋資本主義とは異なる日本型資本主義(銀行中心の金融システム、人格と一体化した労働市場等)の独自の特徴を形作ることになる、という。
20世紀初頭のウェーバーの時代には、西洋資本主義が普遍的と考えられた。その後、日本が資本主義に適応し、先進国になったことは西洋に衝撃を与えた。とはいえ、90年代まではあくまでも西洋が普遍で、日本は特殊の位置付けが続いた。だが、1990年代以降、グローバリゼーションの中で中国が資本主義を受容し、大国として発展、台頭してくる。著者は、中国の台頭の背景には「儒教由来の資本主義の精神」があるとみており、中東イスラム諸国などを含めて、1990年代以降、異なるバックボーンをもつ「異種資本主義の精神の相克と調整・共存の時代に入った」と結論する。その結果、西洋型資本主義の普遍性は揺らぎ、次第に相対化していくだろう。そして、西洋型資本主義において形成され、普遍化されてきた自由・民主主義・人権といった価値も、異種資本主義の精神の相克の中で変容を迫られるといった、パラダイムシフトが生じる可能性もあるのかもしれない。
2019年12月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
〇コンパクトだが、大きなテーマを論じる面白い書。著者は、「プロテスタントの精神によって育まれた資本主義が西欧から世界に伝播している」という理解に対して、「資本主義の精神を育んだのは、プロテスタンティズムだけではない。日本では仏教が、東アジアでは儒教が、イスラム世界ではイスラム教が、というように各地で固有の思想が資本主義の精神を育んだ」「これからはこのように背景を異にする資本主義が相互に交渉する時代に入るのだ」と主張する。
〇そして、「日本の場合は、鎌倉新仏教が、寺院における修行の代替として俗世における精進を認めた結果、それぞれの職業を究めることが奨励された。それと並行した分業の進展、商業ネットワークの成立と相俟って、日本の資本主義が高度に発達した。江戸時代にその精華を見る」と言う。
〇鎌倉新仏教が、職人や商人たちにどれほど浸透していたか、かれらの職業倫理と仏教の教えがどれほど共通しているかなど、よく分らないところがある。よって、著者の主張をすべて受け入れる訳には行かないが(特に道元の教えが職業倫理と結びつくというのは無理があるのではないか)、魅力的な視点である。
〇院政から南北朝にかけて生じた経済社会の進展にかかる記述は面白い。①第三次産業のシェアが8%から20%に伸びた(都市化ゆえ)。②荘園の自給自足経済から、余剰商品を外部に販売するようになった。③専門職業人としては、芸能人(能楽師世阿弥など!)、職人(瀬戸、常滑等の陶器、鍛冶など)があった。④これらの職人は広域にわたる市場を持っていたらしい(旅商人が運んだ)。
〇これが江戸から明治昭和にかけての日本産業の分析に至るとたいへん面白く、納得も行きやすい。江戸時代前半は、分業の確立(士農工商)、求道的職業倫理の確立(鎌倉新仏教に由来)、輸送インフラの整備(海運)、年貢米の換金制度(堂島)、新田開発、各藩の特産品の清算奨励などが相まって、高度成長と人口増加が実現した。同時期の西欧に比べても成長率は高い。しかし江戸時代の後半になると限界効用の逓減からか、成長率も人口増加も鈍化する。同時期に工場制手工業による大量生産で成長を続けた西欧と比べると、ここが日本型の限界のようだ。
〇日本型の特徴は、相互信頼と商業ネットワークによって取引コストを激減させた商業資本主義である。求道的職業倫理の確立にあたっては、鈴木正三、石田梅岩、二宮尊徳などの通俗思想家の教えが大きな役割を果たした。そして、その思想は儒教的であると言われるが、実は仏教(鎌倉新仏教)に拠っていると言う。意外ではあるが、梅岩が、孝行とともに、報恩、生物・自然への配慮、生かされるという心を語っているのはまさにそうなのかもしれない(鈴木大拙も、梅岩は体裁は儒教だが内容は仏教だという趣旨のことを言っていた)。少なくとも輪廻の思想は儒教ではなく仏教だ(不思議なことに神秘主義とは縁のなさそうな道元も輪廻を前提とした議論をしている)。
〇明治になると西欧の制度技術を取り入れて日本産業は大きく発展するが、よく見ると実は在来産業が大きく発展していてこれらが人々の生活の隅々にいきわたっていたと言う。生産様式も流れ作業の大量生産は導入されず、職人型の仕事によっていた。
〇それも第二次大戦後になると、産業も国民生活も全面的にアメリカ式を取り入れるようになる。それでも、西欧型資本主義とは違いがある。第一に、日本企業は、顔の見えない全国的資本市場からではなく付き合いの深い銀行からの資金調達を重視する、第二に、ブルーカラーも含めて人的資本に投資する(当該組織固有の暗黙知。求道的職業倫理)。広く出資者を求め、外部の経営陣を入れるのではなく、気心の知れた株主を好むこと、従業員を取締役に多く抱えることなどは現在の経営者がやり勝ちなことである。
〇今後産業経済のグローバル化は避けられない。その際、自由貿易主義か、カネとヒトの移動の自由化で行くかの選択があると著者は言う(もはや二者択一ではないのではないかと思うが、著者によれば今後自由貿易は閑却されるということか。トランプを見るとそうなのかもしれない。)。前者であれば各地域の独自性は維持されるが、後者であれば最後は世界中が同質の経済社会になる(実際には、さまざまな抵抗や障害があって、それゆえにそこまでは徹底しないと思われるが)。日本は、前者が望ましいだろう。西欧は後者だろうか。中国も後者ではないか。そうなると日本としてはどうすればよいか。顔の見える関係を好む日本型(仏教型)資本主義の良さを発信することしかないのではないか?
〇そして、「日本の場合は、鎌倉新仏教が、寺院における修行の代替として俗世における精進を認めた結果、それぞれの職業を究めることが奨励された。それと並行した分業の進展、商業ネットワークの成立と相俟って、日本の資本主義が高度に発達した。江戸時代にその精華を見る」と言う。
〇鎌倉新仏教が、職人や商人たちにどれほど浸透していたか、かれらの職業倫理と仏教の教えがどれほど共通しているかなど、よく分らないところがある。よって、著者の主張をすべて受け入れる訳には行かないが(特に道元の教えが職業倫理と結びつくというのは無理があるのではないか)、魅力的な視点である。
〇院政から南北朝にかけて生じた経済社会の進展にかかる記述は面白い。①第三次産業のシェアが8%から20%に伸びた(都市化ゆえ)。②荘園の自給自足経済から、余剰商品を外部に販売するようになった。③専門職業人としては、芸能人(能楽師世阿弥など!)、職人(瀬戸、常滑等の陶器、鍛冶など)があった。④これらの職人は広域にわたる市場を持っていたらしい(旅商人が運んだ)。
〇これが江戸から明治昭和にかけての日本産業の分析に至るとたいへん面白く、納得も行きやすい。江戸時代前半は、分業の確立(士農工商)、求道的職業倫理の確立(鎌倉新仏教に由来)、輸送インフラの整備(海運)、年貢米の換金制度(堂島)、新田開発、各藩の特産品の清算奨励などが相まって、高度成長と人口増加が実現した。同時期の西欧に比べても成長率は高い。しかし江戸時代の後半になると限界効用の逓減からか、成長率も人口増加も鈍化する。同時期に工場制手工業による大量生産で成長を続けた西欧と比べると、ここが日本型の限界のようだ。
〇日本型の特徴は、相互信頼と商業ネットワークによって取引コストを激減させた商業資本主義である。求道的職業倫理の確立にあたっては、鈴木正三、石田梅岩、二宮尊徳などの通俗思想家の教えが大きな役割を果たした。そして、その思想は儒教的であると言われるが、実は仏教(鎌倉新仏教)に拠っていると言う。意外ではあるが、梅岩が、孝行とともに、報恩、生物・自然への配慮、生かされるという心を語っているのはまさにそうなのかもしれない(鈴木大拙も、梅岩は体裁は儒教だが内容は仏教だという趣旨のことを言っていた)。少なくとも輪廻の思想は儒教ではなく仏教だ(不思議なことに神秘主義とは縁のなさそうな道元も輪廻を前提とした議論をしている)。
〇明治になると西欧の制度技術を取り入れて日本産業は大きく発展するが、よく見ると実は在来産業が大きく発展していてこれらが人々の生活の隅々にいきわたっていたと言う。生産様式も流れ作業の大量生産は導入されず、職人型の仕事によっていた。
〇それも第二次大戦後になると、産業も国民生活も全面的にアメリカ式を取り入れるようになる。それでも、西欧型資本主義とは違いがある。第一に、日本企業は、顔の見えない全国的資本市場からではなく付き合いの深い銀行からの資金調達を重視する、第二に、ブルーカラーも含めて人的資本に投資する(当該組織固有の暗黙知。求道的職業倫理)。広く出資者を求め、外部の経営陣を入れるのではなく、気心の知れた株主を好むこと、従業員を取締役に多く抱えることなどは現在の経営者がやり勝ちなことである。
〇今後産業経済のグローバル化は避けられない。その際、自由貿易主義か、カネとヒトの移動の自由化で行くかの選択があると著者は言う(もはや二者択一ではないのではないかと思うが、著者によれば今後自由貿易は閑却されるということか。トランプを見るとそうなのかもしれない。)。前者であれば各地域の独自性は維持されるが、後者であれば最後は世界中が同質の経済社会になる(実際には、さまざまな抵抗や障害があって、それゆえにそこまでは徹底しないと思われるが)。日本は、前者が望ましいだろう。西欧は後者だろうか。中国も後者ではないか。そうなると日本としてはどうすればよいか。顔の見える関係を好む日本型(仏教型)資本主義の良さを発信することしかないのではないか?
2020年11月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
資本主義の精神を扱う興味深いテーマで、学ぶべき指摘も多いです。
気になるのは、強調したい点はよくわかるのですが、同じ言葉が繰り返されることです。そのため、新書ですが最後まで読み通すのがちょっと大変です。
気になるのは、強調したい点はよくわかるのですが、同じ言葉が繰り返されることです。そのため、新書ですが最後まで読み通すのがちょっと大変です。
2018年10月21日に日本でレビュー済み
他のレビューにもあるように本書が難解なのは、議論が一般化しておらず先鋭的であるが故に平易な言葉で書かれず(経済学的)専門用語で記述されていることによるものであるものの、日本の資本主義がその根本的な精神において西洋の資本主義と異なることについて議論を展開している画期的な著書である。議論としては非常に画期的であるが、記述がこなれておらず新書としては難解なため星4つ。
人々が日々の職業生活に道を究めるという職業的求道心を持つようになり、そこから「一芸に秀でる」ことを目指すようになったことの説明によって、日本人が資格取得に熱心であったり、趣味を「楽しむ」ものより「究める」ものと捉える傾向が説明できると思われます。
人々が日々の職業生活に道を究めるという職業的求道心を持つようになり、そこから「一芸に秀でる」ことを目指すようになったことの説明によって、日本人が資格取得に熱心であったり、趣味を「楽しむ」ものより「究める」ものと捉える傾向が説明できると思われます。
2018年10月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
西洋の資本主義のルーツにプロテスタンティズムに基づく禁欲的な労働があったとの通説はよく知られているが、著者は日本の資本主義も宗教倫理によって支えられており、その起源が鎌倉新仏教にあると主張する。鎌倉新仏教が悟りを求める手続きを「易行化」し、自らの職業に精進することが修行につながると説いたことが独自の資本主義を育んだというわけである。資本主義と仏教の関連を論じた本は珍しく、江戸時代の鈴木正三が例にあがる程度だが、それを鎌倉時代にまで遡っているのが本書のユニークな点である。だが、自説にこだわり過ぎるせいか、こじつけではないかと思われる点も目立つ。例えば、日本で直接金融よりも間接金融が主流なのは「悪業の蓄積を防ぐために、身近な他者との関係を重視(この件の論旨がよく理解できず)」するのが基本的な原因と説かれている点などである。著者の「大きな物語」の正否を知るには経済学と仏教の詳細な知識を要するが、なんとなくトンデモな理論のように感じてしまった。
2018年9月30日に日本でレビュー済み
扱われているテーマがあまりにもデカすぎる。というのは仏教の日本での受容と鎌倉仏教の登場とその意味合いの分析が著者のテーゼの肝となるため。著者の長年の研究の到達点が実は仏教解釈だったとは意外だが、研究というものはそんなものだろう。たしかに、違和感満載の主流派経済学の基本モデルの背後にキリスト教的人間観が存在するというのは目を開かされた。また生産要素(人や金)のグローバルな配分による効率化と自由貿易を対峙し、前者は西欧型資本主義の世界への伝播を意味し、後者こそ異種の資本主義の精神の維持につながるとの論点は興味深い。結論では東アジア特に中国の資本主義を儒教型資本主義の精神ととらえ、開発独裁(差別の拡大の是認)そしてグローバルな生産要素の配分(新自由主義の下での利益追求)との親和性を呈示した部分にも納得がいった。そのような構図の中で、日本型資本主義が直面する今後の困難さについても地に足の着いた議論が展開されている。
ただ仏教、儒教そしてキリスト教の研究者からは著者による個々の宗教の特性の議論に内在する単純化についてはいろいろな疑問があると思われる。
ただ仏教、儒教そしてキリスト教の研究者からは著者による個々の宗教の特性の議論に内在する単純化についてはいろいろな疑問があると思われる。