プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
¥880¥880 税込
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
¥880¥880 税込
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥258¥258 税込
配送料 ¥240 5月26日-28日にお届け
発送元: バリューブックス 【防水梱包で、丁寧に発送します】 販売者: バリューブックス 【防水梱包で、丁寧に発送します】
¥258¥258 税込
配送料 ¥240 5月26日-28日にお届け
発送元: バリューブックス 【防水梱包で、丁寧に発送します】
販売者: バリューブックス 【防水梱包で、丁寧に発送します】
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書 2205) 新書 – 2013/2/22
長谷川 修一
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥880","priceAmount":880.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"880","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"pGjQfFy9P79WYn17eV2FnzDD2lqSOtbEH4fKc3z%2F%2BXIRQ3sXfppYWyO7UpcIxaGBzE5JtUhMqetRu2oLm3xsLHujbRw1XHlIEuMqvTOhxHrKKIP3sIVa9VyOdS%2FNvzY%2FjFzEhSYoIOQ%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥258","priceAmount":258.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"258","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"pGjQfFy9P79WYn17eV2FnzDD2lqSOtbEvILpxDE4rZNW8GiwdfSBFPNvku9WD%2BpNZsIJ5Q2FkqiWOUhJXCnazbb8pzR5egJN%2BXmAEzSzoiLroJC79C6hAMJMsSOOKJnSQHAh7jwDk5vDuTFZRAevK1mApCmdjL2gRik5daXjyYnN%2BUAtFA5Csg%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
聖書の記述には、現代の我々からすると荒唐無稽に思えるエピソードが少なくない。
いったいどの程度まで史実を反映しているのだろうか。
文献史料の研究にはおのずと限界があり、虚実を見極めるには、遺跡の発掘調査に基づくアプローチが欠かせない。
旧約聖書の記述内容と考古学的知見を照らし合わせることにより、古代イスラエルの真の姿を浮かび上がらせる。
本書は現地調査に従事する研究者の、大いなる謎への挑戦である。
<目次>
まえがき
第一章 聖書はなぜ書かれたか
第二章 考古学は聖書について何を明らかにするか
第三章 アブラハムは実在したか――族長時代
第四章 イスラエルはカナンを征服したか――土地取得時代
第五章 民族の栄光と破滅――イスラエル王国時代
第六章 一神教の形成からキリスト教へ
第七章 聖書と歴史学・考古学――現在と展望
あとがき
読書案内
参考文献
いったいどの程度まで史実を反映しているのだろうか。
文献史料の研究にはおのずと限界があり、虚実を見極めるには、遺跡の発掘調査に基づくアプローチが欠かせない。
旧約聖書の記述内容と考古学的知見を照らし合わせることにより、古代イスラエルの真の姿を浮かび上がらせる。
本書は現地調査に従事する研究者の、大いなる謎への挑戦である。
<目次>
まえがき
第一章 聖書はなぜ書かれたか
第二章 考古学は聖書について何を明らかにするか
第三章 アブラハムは実在したか――族長時代
第四章 イスラエルはカナンを征服したか――土地取得時代
第五章 民族の栄光と破滅――イスラエル王国時代
第六章 一神教の形成からキリスト教へ
第七章 聖書と歴史学・考古学――現在と展望
あとがき
読書案内
参考文献
- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2013/2/22
- ISBN-10412102205X
- ISBN-13978-4121022059
よく一緒に購入されている商品
対象商品: 聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書 2205)
¥880¥880
最短で5月24日 金曜日のお届け予定です
残り7点(入荷予定あり)
¥902¥902
最短で5月26日 日曜日のお届け予定です
残り1点(入荷予定あり)
¥1,540¥1,540
最短で5月24日 金曜日のお届け予定です
残り9点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2013/2/22)
- 発売日 : 2013/2/22
- 言語 : 日本語
- 新書 : 237ページ
- ISBN-10 : 412102205X
- ISBN-13 : 978-4121022059
- Amazon 売れ筋ランキング: - 77,673位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 380位中公新書
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年11月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
旧約聖書は貴重な歴史書でもあることを知った。アッシリアなど他の文献にも人名や出来事が出てきて史実が一致することは、また他の文献になくて旧約聖書しか記述がなくても、そのような出来事があった可能性が高いことを知る。またダニエル記以降のヘレニズム時代などの『旧約聖書続編』があることも初めて知った。
2021年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
旧約聖書はどこまで事実か、などの素朴な疑問に答えてくれるが、如何せん5000年も前のことなどそう簡単には立証できるはずもないが、聖書への興味はいや増す。
2023年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
非常に興味深い分野で、第7章やあとがきにある著者の熱意にも大いに共感できたが、いかんせん適切な図表や年表がなく理解するのが大変。せめて文中に出て来る遺跡の地図や王の在位年等は近くのページに分かりやすく置いて欲しい(他の方も指摘されていたが痛感させられた)。
2020年8月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
聖書の成り立ちや、ユダヤ教、キリスト教等が成立した背景、またキリスト教やイスラム教がなぜ布教活動に熱心だったのかなど、宗教成立の背景にとても興味があり、そんな時にこの本を見つけて、これだ!と思いました。
聖書に書かれている内容と史実の比較等、とても興味深い内容でした。
おすすめです。
聖書に書かれている内容と史実の比較等、とても興味深い内容でした。
おすすめです。
2019年10月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古代イスラエル民族の聖典である旧約聖書について、考古学の観点からその記述が史実に基づいていると
言えるかどうかを解説した本です。よって宗教的な見地に囚われること無く、古代の遺跡や遺物、碑文
などと比較して年代や登場人物、地名などがどこまで矛盾無く整合しているかがポイントとなっています。
旧約聖書は民俗宗教の聖典ですが、聖書考古学は聖書を構成する書の間にも不整合があること、また
同時代の碑文などと矛盾する箇所があることから聖典が絶対的なもので無いことを示しています。
それでも聖書には古代史上、実際に起こった史実が多く含まれるのは確かです。と同時に誰が何時どんな
意図をもって聖書を書いたのかが解明されていないため、史実を正しく反映しているとは言い切れません。
中国の歴史書のように、後の政権によって歴史が書き換えられたり、解釈が変動する例があるからです。
これは旧約聖書の時代のエジプト文明でも同様です。また聖書が多くの写本からなっており原本と言うべき
ものが存在しないことも、問題を複雑にしています。ですが聖書考古学に関わる学者は宗教的な意図から
解釈を行うことは慎重に避けているそうで、あくまでも複数の発掘研究が整合しないと史実とは認めない
立場を取っているため、論争はあるものの聖書考古学の研究成果は信頼に足るものであることが分かり
ました。
現代のアメリカには聖書原理主義とも言える聖書の記述は全て正しいとする極端な考え方の人達がいます
が、他の民族の神話、伝承、碑文などと同様に考古学的な考証を経てから解釈すべきだと感じました。
なお他のレビューを投稿されている方には原理主義者は居ないようなので、少し安心しています。
言えるかどうかを解説した本です。よって宗教的な見地に囚われること無く、古代の遺跡や遺物、碑文
などと比較して年代や登場人物、地名などがどこまで矛盾無く整合しているかがポイントとなっています。
旧約聖書は民俗宗教の聖典ですが、聖書考古学は聖書を構成する書の間にも不整合があること、また
同時代の碑文などと矛盾する箇所があることから聖典が絶対的なもので無いことを示しています。
それでも聖書には古代史上、実際に起こった史実が多く含まれるのは確かです。と同時に誰が何時どんな
意図をもって聖書を書いたのかが解明されていないため、史実を正しく反映しているとは言い切れません。
中国の歴史書のように、後の政権によって歴史が書き換えられたり、解釈が変動する例があるからです。
これは旧約聖書の時代のエジプト文明でも同様です。また聖書が多くの写本からなっており原本と言うべき
ものが存在しないことも、問題を複雑にしています。ですが聖書考古学に関わる学者は宗教的な意図から
解釈を行うことは慎重に避けているそうで、あくまでも複数の発掘研究が整合しないと史実とは認めない
立場を取っているため、論争はあるものの聖書考古学の研究成果は信頼に足るものであることが分かり
ました。
現代のアメリカには聖書原理主義とも言える聖書の記述は全て正しいとする極端な考え方の人達がいます
が、他の民族の神話、伝承、碑文などと同様に考古学的な考証を経てから解釈すべきだと感じました。
なお他のレビューを投稿されている方には原理主義者は居ないようなので、少し安心しています。
2015年12月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
聖書だけでは、わからないこと。この本と共に学びと理解が増そうではす
2014年2月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は聖書考古学の限界を提示しているという点で啓蒙的かもしれない。考古学の成果は必ずしも聖書の記述の理解に役に立たないのである。読者は本書を通して聖書の記述と考古学的成果の関連性を見いだすことの難しさを実感するのではないか。私は本書から聖書考古学の未来が必ずしも明るいわけではないことを感じた。
例えば、著者は『列王記下』のヨシヤによる聖所破壊政策を史実とみなしているようだが、「実際のところ、ヨシヤによる…破壊は考古学的に実証されていない」、と指摘する(32頁)。そもそも、「…聖書に登場する王たちが残したと確証される碑文は現在までみつかっていない」のである(57頁)。『創世記』と考古学的発見の関連性に至っては、誰もが予測する通り、一層希薄である。「族長のうち誰一人、膨大な数にのぼる…文献史料に言及される人物はいなかったのである」(71頁)。アブラハム、イサク物語の舞台となったベエル・シェバの考古学調査についても、「肝心の族長時代と考えられている時代のものは何も発見されず…」(84頁)。アブラハムが祭壇を築いたシケムについては、「ここでは城塞のよう[な]…壁に囲まれた建物が見つかり、「ミグダル(塔)神殿」と呼ばれている。この神殿は…中期青銅器時代が族長時代と並行することもあり、アブラハム物語に言及される「シケムの聖所」とはこの聖所だった、と考える研究者もいる」らしい(88頁)。ヤコブが訪れたベテルについては、「この時代の層からは聖所と思われる建物が見つかっている」が(87頁)、語れることはそこまでである。著者は(もちろん自覚的にであろうが)そういった考古学的発見から『創世記』について何かを語れる可能性を提示しない。もちろんこれは誠実な態度である。
ところが奇妙なことに著者は、誰の目にも明らかであるはずの、聖書の記述と考古学的成果の間の大きなギャップをつまびらかにしようとしない。聖書の記述と考古学的考察を行った後の著者のまとめ方は次のような調子である。「これのみを根拠にこれら二つの物語の史実性を頭ごなしに否定することはできないだろう」(84頁)。「アブラハムの物語にはこうした歴史的記憶の断片が反映されているのかもしれない」(88頁)。「しかし発掘の成果の一部は、父祖たちの物語すべてがまったくの創作というわけではなく、そこに何かしら、古代の記憶が反映されている可能性をも暗示している」(91頁)。考古学的研究成果との関連性を失ってもなお残る聖書物語の「史実性」「歴史的記憶の断片」「古代の記憶」とは一体何なのだろうか。聖書にわずかでも史実性を見出したい"聖書教徒"の読者にとっては、上記のような留保は耳に心地よいかもしれないが、批判的な読者にとっては歯切れの悪い表現に聞こえる。
著者は「まえがき」で、聖書について「考古学はそれを裏づけているのか?」と問うているが(ii頁)、本書はその問いに対し、何も裏づけていない、という回答を暗に提出しているように感じた。著者は、聖書考古学の存在意義を「聖書の歴史記述の深い理解に達するため…」としているが(62頁)、その意味において聖書考古学は限界に達しているのかもしれない。著者に意図に反するかもしれないが、私は以上のことを本書から学ぶことができた。
最後に気になった箇所を二点。一つは著者のユダヤ(民族)史に対する認識である。著者は、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人が「ローマ帝国内の各地へ離散し、世界各地でユダヤ教とその文化を守り、育んでいった。…ユダヤ人は一九世紀になって再びパレスチナの地に戻り、一九四八年にイスラエル国を建国した」と概説するが(209頁)、これは現在では受け入れられない歴史認識である。第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人がパレスチナ地方から「離散」した証拠はないからだ。著者は「離散と帰還」というモチーフがイスラエル建国神話を構成していることを一言すべきだっただろう。もう一つは南京虐殺問題に関するコメント。「第二次世界大戦中に日本軍が南京で大虐殺を行ったと唱える人々がいる。また逆に、そうした虐殺はなかった、と唱える人もいる。これらは一般の人々だけではなく、専門の歴史家が互いに相容れない意見を論じているのだから、当然その背景には依拠すべき何らかの史料があると考えてよいだろう。これらの資料の信憑性に対する態度とその解釈の仕方が両者の意見を分けているわけだ」(58頁)、との見解には問題があろう。南京虐殺をめぐる議論が「資料の…解釈の仕方」によるのでないことは常識である。歴史を主題とする本にこのようなナイーヴな見解を載せることに、著者はもちろん編集者も注意すべきではなかったか。
例えば、著者は『列王記下』のヨシヤによる聖所破壊政策を史実とみなしているようだが、「実際のところ、ヨシヤによる…破壊は考古学的に実証されていない」、と指摘する(32頁)。そもそも、「…聖書に登場する王たちが残したと確証される碑文は現在までみつかっていない」のである(57頁)。『創世記』と考古学的発見の関連性に至っては、誰もが予測する通り、一層希薄である。「族長のうち誰一人、膨大な数にのぼる…文献史料に言及される人物はいなかったのである」(71頁)。アブラハム、イサク物語の舞台となったベエル・シェバの考古学調査についても、「肝心の族長時代と考えられている時代のものは何も発見されず…」(84頁)。アブラハムが祭壇を築いたシケムについては、「ここでは城塞のよう[な]…壁に囲まれた建物が見つかり、「ミグダル(塔)神殿」と呼ばれている。この神殿は…中期青銅器時代が族長時代と並行することもあり、アブラハム物語に言及される「シケムの聖所」とはこの聖所だった、と考える研究者もいる」らしい(88頁)。ヤコブが訪れたベテルについては、「この時代の層からは聖所と思われる建物が見つかっている」が(87頁)、語れることはそこまでである。著者は(もちろん自覚的にであろうが)そういった考古学的発見から『創世記』について何かを語れる可能性を提示しない。もちろんこれは誠実な態度である。
ところが奇妙なことに著者は、誰の目にも明らかであるはずの、聖書の記述と考古学的成果の間の大きなギャップをつまびらかにしようとしない。聖書の記述と考古学的考察を行った後の著者のまとめ方は次のような調子である。「これのみを根拠にこれら二つの物語の史実性を頭ごなしに否定することはできないだろう」(84頁)。「アブラハムの物語にはこうした歴史的記憶の断片が反映されているのかもしれない」(88頁)。「しかし発掘の成果の一部は、父祖たちの物語すべてがまったくの創作というわけではなく、そこに何かしら、古代の記憶が反映されている可能性をも暗示している」(91頁)。考古学的研究成果との関連性を失ってもなお残る聖書物語の「史実性」「歴史的記憶の断片」「古代の記憶」とは一体何なのだろうか。聖書にわずかでも史実性を見出したい"聖書教徒"の読者にとっては、上記のような留保は耳に心地よいかもしれないが、批判的な読者にとっては歯切れの悪い表現に聞こえる。
著者は「まえがき」で、聖書について「考古学はそれを裏づけているのか?」と問うているが(ii頁)、本書はその問いに対し、何も裏づけていない、という回答を暗に提出しているように感じた。著者は、聖書考古学の存在意義を「聖書の歴史記述の深い理解に達するため…」としているが(62頁)、その意味において聖書考古学は限界に達しているのかもしれない。著者に意図に反するかもしれないが、私は以上のことを本書から学ぶことができた。
最後に気になった箇所を二点。一つは著者のユダヤ(民族)史に対する認識である。著者は、第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人が「ローマ帝国内の各地へ離散し、世界各地でユダヤ教とその文化を守り、育んでいった。…ユダヤ人は一九世紀になって再びパレスチナの地に戻り、一九四八年にイスラエル国を建国した」と概説するが(209頁)、これは現在では受け入れられない歴史認識である。第二次ユダヤ戦争によってユダヤ人がパレスチナ地方から「離散」した証拠はないからだ。著者は「離散と帰還」というモチーフがイスラエル建国神話を構成していることを一言すべきだっただろう。もう一つは南京虐殺問題に関するコメント。「第二次世界大戦中に日本軍が南京で大虐殺を行ったと唱える人々がいる。また逆に、そうした虐殺はなかった、と唱える人もいる。これらは一般の人々だけではなく、専門の歴史家が互いに相容れない意見を論じているのだから、当然その背景には依拠すべき何らかの史料があると考えてよいだろう。これらの資料の信憑性に対する態度とその解釈の仕方が両者の意見を分けているわけだ」(58頁)、との見解には問題があろう。南京虐殺をめぐる議論が「資料の…解釈の仕方」によるのでないことは常識である。歴史を主題とする本にこのようなナイーヴな見解を載せることに、著者はもちろん編集者も注意すべきではなかったか。
2018年10月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いくぶん予習しといたほうがいいかもしれませんが、面白く聖書の勉強ができます。