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小林秀雄全作品 22 単行本 – 2004/7/1
小林 秀雄
(著)
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近代絵画
- 本の長さ333ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2004/7/1
- ISBN-104106435624
- ISBN-13978-4106435621
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
小林秀雄の全作品を網羅し、計約730篇を発表年月順に配列した第6次小林秀雄全集。本文はすべて新字体・新かなづかい。全作品に、人名・書名・難語等を解説する脚注付き。第22巻は、昭和33年の作品を収録。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2004/7/1)
- 発売日 : 2004/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 333ページ
- ISBN-10 : 4106435624
- ISBN-13 : 978-4106435621
- Amazon 売れ筋ランキング: - 535,910位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 233位個人全集の全集・選書
- カスタマーレビュー:
著者について
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1902‐1983。東京生れ。東京帝大仏文科卒。1929(昭和4)年、「様々なる意匠」が「改造」誌の懸賞評論二席入選。戦中は「無常という事」以 下、古典に関する随想を手がけ、終戦の翌年「モオツァルト」を発表。’67年、文化勲章受章。連載11年に及ぶ晩年の大作『本居宣長』(’77年刊)で日 本文学大賞受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 人間の建設 (ISBN-13: 978-4101007083)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年3月5日に日本でレビュー済み
若い頃の小林秀雄は、理論家だった。長いものは書かず、時評だろうと作家論だろうと古典論だろうと、自分の見方、スタンスを批評対象の中で語った。ただの随筆やエッセイではなく、なんとなく哲学的な普遍的なものを感じだ。
ドストエフスキー論辺りから、伝記みたいになりだし、近代絵画論も、冒頭のボードレール論、ワグナーを絡めた理論的な論述を除けば、各章、画家の伝記、評伝みたいになった。
正直、文章に厚みがなく、作家が書く歴史ものや評伝に比べで魅力がなかった。また専門の研究者と違って、一次資料の検索に限界があるから、何となく「生」の感じがない。缶詰のような気もした。
偉い「思想家」というふれこみがあるから、じゃあ分からないと、みっともないから、面白い、とかなんとか言ってる人がほとんどではないだろうか。
このあと、小林秀雄は本居宣長に行くが、ベルクソン論でコケるので、かなり入念に準備し、『本居宣長』を完成させる。これは評伝とも、研究書でもない、全く独特のものだ。だけどここに来るまで、やはり、何ともしれない『近代絵画』や『ドストエフスキ』を書いていた。だいぶ悩んだのではないかと想像する。
江藤淳も結局評伝に行く。『漱石とその時代』など明治もの。江藤淳の方がずっと割り切ってきるが、やはり、歴史ものと言うには、感想めいているし、司馬遼太郎のような面白さはない。
福田和也も結局、評伝に行くが、まあなんともしれないものになっている。
純批評でやるのは容易なことではないんだろう。
ドストエフスキー論辺りから、伝記みたいになりだし、近代絵画論も、冒頭のボードレール論、ワグナーを絡めた理論的な論述を除けば、各章、画家の伝記、評伝みたいになった。
正直、文章に厚みがなく、作家が書く歴史ものや評伝に比べで魅力がなかった。また専門の研究者と違って、一次資料の検索に限界があるから、何となく「生」の感じがない。缶詰のような気もした。
偉い「思想家」というふれこみがあるから、じゃあ分からないと、みっともないから、面白い、とかなんとか言ってる人がほとんどではないだろうか。
このあと、小林秀雄は本居宣長に行くが、ベルクソン論でコケるので、かなり入念に準備し、『本居宣長』を完成させる。これは評伝とも、研究書でもない、全く独特のものだ。だけどここに来るまで、やはり、何ともしれない『近代絵画』や『ドストエフスキ』を書いていた。だいぶ悩んだのではないかと想像する。
江藤淳も結局評伝に行く。『漱石とその時代』など明治もの。江藤淳の方がずっと割り切ってきるが、やはり、歴史ものと言うには、感想めいているし、司馬遼太郎のような面白さはない。
福田和也も結局、評伝に行くが、まあなんともしれないものになっている。
純批評でやるのは容易なことではないんだろう。
2015年8月16日に日本でレビュー済み
本巻の中心は「近代絵画」です。この評論は、小林の長編評論の中でも最も重要な一つと感じました。
「近代絵画の運動とは、画家が扱う主題の構成或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」という認識(12ページ)の基に、モネ、セザンヌ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソといった天才たちの「烈しい工夫」がどのようなものだったかが正確な言葉で述べられています。
そのほかは小編ですが、「ゴッホの病気」という文章が短いながらゴッホの芸術の核心部分を過たず貫いています。自らの狂気を意識していたゴッホが狂気と正気のはざまで救い難い自らの精神を絵でしか表現できなかったところに私たちの心を捕えて離さないゴッホの絵のもつ衝撃力のあることが明らかにされています。
なお、本巻を読むにあたっては、取り上げられた各画家の画集を用意し、「ゴッホの手紙」を熟読しておく必要があります。
「近代絵画の運動とは、画家が扱う主題の構成或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」という認識(12ページ)の基に、モネ、セザンヌ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソといった天才たちの「烈しい工夫」がどのようなものだったかが正確な言葉で述べられています。
そのほかは小編ですが、「ゴッホの病気」という文章が短いながらゴッホの芸術の核心部分を過たず貫いています。自らの狂気を意識していたゴッホが狂気と正気のはざまで救い難い自らの精神を絵でしか表現できなかったところに私たちの心を捕えて離さないゴッホの絵のもつ衝撃力のあることが明らかにされています。
なお、本巻を読むにあたっては、取り上げられた各画家の画集を用意し、「ゴッホの手紙」を熟読しておく必要があります。
2015年3月24日に日本でレビュー済み
近代絵画は、これに先行する絵画との対比によって語られて来た。社会構造の変革によって、その時代以前には画家とは看做されなかった人物が歴史上の画家になることが可能になった、そういう時代の「ことば」である。
歴史的な文脈に乗せれば、「人々の生業」がいつ脱線したのかを知ることのできる良書である。加えて言うなら、ホッブズの警告も虚しく響く「失策の打撃」が如何に深刻なものであるのかを、確認することができる貴重な著作である。
それ以前であれば、特定の業種なり業界なりに一家言あるひとがいて、その人が言っていることは本質的には正しいということは、少なくとも一面的には、社会的な前提であって、共有財産とも言えるものだった。
現代の芸術家も事実上、かつての芸術家と同様の態度を採っていて、自分達の価値観をこの社会が認めていて、かつての芸術家に関しても判断力を持つのは自分たちであるという態度は、全く珍しくないものである。これは全く不適切であって、社会構造の変革によって、その同一性が継承されなかった場合には、この態度は不適切なのである。似た様なことをしているという理由で、かつての人々の仕事をより理解できるということは無いのである。
現在では必ずしも限られた知見ではないと考えるが、現代の芸術家の多くは、作品群を含めたこれまでの知の遺産を正当に評価しないばかりではない。その個人的な解釈は、興味を引くものではあっても、あくまでその作家に関しての事情であるという予断が有効なのである。
窯業及びこれに類する各種工業の拡大により、地球環境が悪化し、その結果として人間の身体能力が低下すると、「道具に依存すれば何とかなる」というような現実的でない発想が流布する。資本家の台頭と並行して流布したこの「思想」は、「大量生産大量消費」の思想としても知られる。その頃から、「白樺派」時代の芸術家が台頭する。作品の直感的な理解が成り立たない作品ばかりが生産されて、理論武装した作家なり評論家なりが、攻勢をかける。
自然科学を参照してみても、物質を言語によって適切に記述することが困難であることは明白であり、作品と評論等の乖離は当然深刻になるのみであった。
ただでさえ空転している芸術家の言語的な認識を逆手に取った攻撃が、それぞれの分野の拡大を支えたのは、一面では事実であったとしても、その地球規模の社会的な被害は、利益に見合ったものではなかった。
広義の「白樺派」に数えられる小林が見落としたのは、近代絵画の本質的な欠陥であった。ハイリスク、ローリターンの極致としての芸術が強く持っている破壊衝動は、単純かつ素朴な人間的な遣り取りさえも否定するのである。
既に述べた様に、近代絵画以降の絵画に対しては、安易に助力すべきでない。人間が協力し自然と共存する為には、人口密度の増加が欠かせないという知見がある。ハイデカーの件の指摘は、これさえも暗に意味するものである。同様に、根源的な思索が古代哲学におけるアルケーとの類比を許容することと同様であって、見当違いの批判は見かけよりも不適切である。
人の出入りの指標や目印になるという機能は、量産化されたルーベンス絵画にも備わっている。量産化された近代以降の画家の人数はその成果の粗悪さの理由には出来ない。
公共機関などで見受けられるブロンズの類が持っていていい筈のこの機能でさえ、ルーベンス工房の絵画と比較して大きく見劣りすることは、その背後の権力の調整にも明らかな不備があることを含意するものである。造形のちょっとした不手際さえ、悪影響を生むのである。
芸術作品が目印の為に存在するものでないことは当然としても、現代ではインフラ整備は既に完成の域に達している。「お祭りのゴミ」にしかならない「文化関係予算」は不要であり、自称芸術家の要求や主張が見当違いであることを改めて確認すべきである。
歴史的な文脈に乗せれば、「人々の生業」がいつ脱線したのかを知ることのできる良書である。加えて言うなら、ホッブズの警告も虚しく響く「失策の打撃」が如何に深刻なものであるのかを、確認することができる貴重な著作である。
それ以前であれば、特定の業種なり業界なりに一家言あるひとがいて、その人が言っていることは本質的には正しいということは、少なくとも一面的には、社会的な前提であって、共有財産とも言えるものだった。
現代の芸術家も事実上、かつての芸術家と同様の態度を採っていて、自分達の価値観をこの社会が認めていて、かつての芸術家に関しても判断力を持つのは自分たちであるという態度は、全く珍しくないものである。これは全く不適切であって、社会構造の変革によって、その同一性が継承されなかった場合には、この態度は不適切なのである。似た様なことをしているという理由で、かつての人々の仕事をより理解できるということは無いのである。
現在では必ずしも限られた知見ではないと考えるが、現代の芸術家の多くは、作品群を含めたこれまでの知の遺産を正当に評価しないばかりではない。その個人的な解釈は、興味を引くものではあっても、あくまでその作家に関しての事情であるという予断が有効なのである。
窯業及びこれに類する各種工業の拡大により、地球環境が悪化し、その結果として人間の身体能力が低下すると、「道具に依存すれば何とかなる」というような現実的でない発想が流布する。資本家の台頭と並行して流布したこの「思想」は、「大量生産大量消費」の思想としても知られる。その頃から、「白樺派」時代の芸術家が台頭する。作品の直感的な理解が成り立たない作品ばかりが生産されて、理論武装した作家なり評論家なりが、攻勢をかける。
自然科学を参照してみても、物質を言語によって適切に記述することが困難であることは明白であり、作品と評論等の乖離は当然深刻になるのみであった。
ただでさえ空転している芸術家の言語的な認識を逆手に取った攻撃が、それぞれの分野の拡大を支えたのは、一面では事実であったとしても、その地球規模の社会的な被害は、利益に見合ったものではなかった。
広義の「白樺派」に数えられる小林が見落としたのは、近代絵画の本質的な欠陥であった。ハイリスク、ローリターンの極致としての芸術が強く持っている破壊衝動は、単純かつ素朴な人間的な遣り取りさえも否定するのである。
既に述べた様に、近代絵画以降の絵画に対しては、安易に助力すべきでない。人間が協力し自然と共存する為には、人口密度の増加が欠かせないという知見がある。ハイデカーの件の指摘は、これさえも暗に意味するものである。同様に、根源的な思索が古代哲学におけるアルケーとの類比を許容することと同様であって、見当違いの批判は見かけよりも不適切である。
人の出入りの指標や目印になるという機能は、量産化されたルーベンス絵画にも備わっている。量産化された近代以降の画家の人数はその成果の粗悪さの理由には出来ない。
公共機関などで見受けられるブロンズの類が持っていていい筈のこの機能でさえ、ルーベンス工房の絵画と比較して大きく見劣りすることは、その背後の権力の調整にも明らかな不備があることを含意するものである。造形のちょっとした不手際さえ、悪影響を生むのである。
芸術作品が目印の為に存在するものでないことは当然としても、現代ではインフラ整備は既に完成の域に達している。「お祭りのゴミ」にしかならない「文化関係予算」は不要であり、自称芸術家の要求や主張が見当違いであることを改めて確認すべきである。
2017年11月1日に日本でレビュー済み
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『近代絵画』は小林秀雄が洋行して、じっくり絵画を鑑賞した経験をもとに執筆した著書である。画家としては、「モネ」「セザンヌ」「ゴッホ」「ゴーガン」「ルノアール」「ドガ」と論じてきて、「ピカソ」で小林秀雄は仕切り直しをする。この「ピカソ」には「セザンヌ」とともに、あるいはそれ以上の力がそそがれている。同時代を生きている巨人だったためであろう。ヴォリンゲルの芸術論を引用しつつ、マルクスのギリシア美術を母体とした芸術観を、ものの見事に破壊して突き進んでいる。この『近代絵画』は、「セザンヌ」に音楽論からアプローチした傾きが著しいし、随所に文学論からの切り込みもなされているのが特徴である。いわば総括的な近代芸術論である。その過程で、ルソーの思想も破壊されてしまっている。ここまでくると小林秀雄は、超近代であり、ポストモダンである。
2015年4月12日に日本でレビュー済み
小林秀雄の近代絵画への興味は、作品の感動に端を発していることは確かだが、その興味が近代芸術の再評価の上に立っているということはない。実に素朴な絵画鑑賞の上に立っていると言っていいほどで、芸術史家の整理などは一向興味がないようだ。近代の芸術家が社会的孤立をしていたというのは不当だとは書いておらず、むしろ逆の時代であったと言って話を始めている。近代という時代が、それぞれ芸術家が孤立を深めていった時代であった言うために、わざわざボードレールの項を設けているくらいだ。後世からの復権的再評価など全く念頭になかっただろう。小林秀雄が書いているのは個々の画家の作品だとか生活だとか人柄だとかの話である。小林の興味もそこにあったと『「近代絵画」著者の言葉』にもある。であるから、『近代絵画』は、絵画評と言うよりも、評伝であると言った方が正しいのかもしれない。ここに描かれているモネとセザンヌ、ルノアール、ゴッホ、まるで彼らは別の世界の住人だ。ゴーギャンともなると、不思議で気の毒な破滅である。時代の特徴はむしろ、画家たちの作品の名声によって曇ってしまったというべきだろうか。
この一冊のなかで個人的に面白かったのは、『蓄音機』。小林秀雄はエッセイの達人でもあったが、これはその中でも軽妙闊達という点で優れていると思う。珠玉の一品といえるのではないか。
この一冊のなかで個人的に面白かったのは、『蓄音機』。小林秀雄はエッセイの達人でもあったが、これはその中でも軽妙闊達という点で優れていると思う。珠玉の一品といえるのではないか。