精神科医で精神病理学を専攻する著者が、脳科学の知見や、西洋思想を取り入れながら、精神病患者の言語活動と記憶の古層を尋ねる。大変浩瀚で参考になる議論を展開する。唯一の難点は、精神病理学と脳科学、西洋思想がどのように結び付くのか、今ひとつ理解しにくい点にある。精神病患者の症例を的確に診断するためには、患者の言語活動と記憶の形成を正確に理解する必要があるということだ。記憶の形成について著者は、ベルクソンが『物質と記憶』で述べた第1記憶を出発点に、論を展開する。中世スコラ哲学上の普遍論争まで引用し、記憶が「普遍」によって形成されるのか、あるいは「一期一会」の記憶として形成され、更新されるものなのか、浩瀚な議論を展開する。ここは本書の白眉である。今日、私たちが「歌手」という言葉を用いる場合、「歌手」という概念が予め存在し、それが個々に特定の歌手に適用されるのか、あるいは個別の歌手の活動を見て事後的に個々の「歌手」概念が形成されるのか、どちらを支持すべきか、前者は唯名論、後者なら実在論を支持することになる。著者は後者を支持し、記憶の「一期一会」性を強調する。もし、ここにウィトゲンシュタインのような分析哲学者や言語哲学者がこの議論に参加していれば、予め事実としての「歌手」概念を話者が手にしていなければ、「歌手」概念を用いることは出来ないではないかと反論するであろう。この場合、事実としての「歌手」概念とは、歌うことを本業にし、生活している者ということになるだろう。この論点のポイントは、実際にどういう活動をしている者を差して「歌手」という言葉を用いるのかということだ。
著者の記憶に関する「一期一会」論は、動物園のライオンが背中を見せた飼育員を突然襲ったという過去に実在した事件を取り上げ、深まりを見せる。ライオンの飼育員に対する記憶がベルクソンの言う、餌を与える者という第1記憶として完全に定着していたのであれば、ライオンは飼育員を襲うことはなかったであろうと考える。この場合考えられることは、飼育員に対するライオンの過去からの記憶がその都度少しずつ変化していった可能性があるということだ。つまり、飼育員に対するライオンの記憶は「一期一会」的に形成されていたということである。これは著者の立論を強化する例証になるであろう。そのように考えると、精神科医は、患者の言語活動と記憶に関しては「一期一会」的に分析し、診断する必要があるということになろう。そのための理論と臨床も必要であろう。
本書が提示する話題は実に豊富で面白く、読んで楽しく、尽きないものがある。著者の立論に加えて欲しかったのは、ラカンやジジェクの精神分析論である。もう少し異なる議論が可能だったのではないだろうか?とはいえ、本書は精神医学から哲学まであらゆる読書人のニーズに応えてくれる。お勧めの一冊だ。
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なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/10/12
兼本 浩祐
(著)
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オートポイエーシスという閉じた系の身体でありながら、意識が立ち上がるに際しては外部に連結する開口部を持たなければならないという矛盾。意識という現象はいったい何なのか。脳の働きとの関係はどうなっているのか。それは「私」という一続きの事態をどう成立させているのか。脳科学研究が「意識」の物質への還元を方向付ける趨勢に反駁したベルクソン、さらにドゥルーズの理論を参照し「私」の立ち上がる現場に迫る。
私の身体と私の意識。身体の生はオートポイエーシスという閉じた系であるのに、意識はそのつどの神経ネットワークを物質的基盤としつつも「私」が立ち上がるに際しては外部へと連結する開口部を持たなければならないという矛盾。脳科学研究が「意識」の物質への還元を方向付けるなか、20世紀初めにはベルクソンが反駁の理論を打ち立てた。
意識という現象はいったい何なのか。脳の働きとの関係はどうなっているのか。それは「私」という一続きの事態をどう成立させているのか。
精神病理学者である著者が、さまざまな症例を引き、ベルクソン・ドゥルーズの理論を参照しながら、「私」の立ち上がる現場を突き詰めていく。
私の身体と私の意識。身体の生はオートポイエーシスという閉じた系であるのに、意識はそのつどの神経ネットワークを物質的基盤としつつも「私」が立ち上がるに際しては外部へと連結する開口部を持たなければならないという矛盾。脳科学研究が「意識」の物質への還元を方向付けるなか、20世紀初めにはベルクソンが反駁の理論を打ち立てた。
意識という現象はいったい何なのか。脳の働きとの関係はどうなっているのか。それは「私」という一続きの事態をどう成立させているのか。
精神病理学者である著者が、さまざまな症例を引き、ベルクソン・ドゥルーズの理論を参照しながら、「私」の立ち上がる現場を突き詰めていく。
- 本の長さ242ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2018/10/12
- 寸法13 x 1.5 x 18.8 cm
- ISBN-104065135192
- ISBN-13978-4065135198
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商品の説明
著者について
兼本 浩祐
1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。専門は精神病理学、神経心理学、臨床てんかん学。
著書に『脳を通って私が生まれるとき』(日本評論社)、『心はどこまで脳なのだろうか』『てんかん学ハンドブック』(医学書院)、『専門外の医師のための大人のてんかん入門』(中外医学社)、詩集『世界はもう終わるときが来たというので』『深海魚のように心気症を病みたい』『ママちゃりで僕はウルムチに』(東京図書出版)など。
1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。専門は精神病理学、神経心理学、臨床てんかん学。
著書に『脳を通って私が生まれるとき』(日本評論社)、『心はどこまで脳なのだろうか』『てんかん学ハンドブック』(医学書院)、『専門外の医師のための大人のてんかん入門』(中外医学社)、詩集『世界はもう終わるときが来たというので』『深海魚のように心気症を病みたい』『ママちゃりで僕はウルムチに』(東京図書出版)など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2018/10/12)
- 発売日 : 2018/10/12
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 242ページ
- ISBN-10 : 4065135192
- ISBN-13 : 978-4065135198
- 寸法 : 13 x 1.5 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 410,332位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 680位講談社選書メチエ
- - 6,083位実用・暮らし・スポーツ
- - 13,510位哲学・思想 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2018年10月26日に日本でレビュー済み
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2018年10月25日に日本でレビュー済み
素晴らしい論考だ。著者は、医学を超え、脳科学を超え、哲学の領域に入っています。いきなりドゥルーズ『差異と反復』の要約が登場します。ここは分からなくても気にしないでおきます。著者は医者ですから、患者さんの異常な状態を考察して人間を理解するという方法が使えます。患者の例を、ベルグソンやカントを使って説明するのです。これは素晴らしい。私が望んでいた医学と哲学の融合です。統合失調症、網膜の錐体細胞異常、てんかん、カプグラ症候群、ネオロギスム(語新作)、視覚失認などです(第1章)。
「正しい診断と正しい治療」というテーゼを相手にしません。ましてやDSM(アメリカ精神医学会の診断基準)などの診断基準も問題にしません。著者は精神科医ですから、フロイトやラカンの精神分析系であっても不思議ではありませんが、どうやらその系統でもなさそうです。脳の話が結構ありますので、脳の神経科学や認知科学で心や意識の問題は解けると考えているのかと思いきや、ベルクソンを持ち出しますので、そうではなさそうです。ベルグソンは脳科学に抗して自分の理論を展開した人ですから。オーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズ的にいえば、意識のハード・プロブレムに取り組む精神科医ということになります。現在の日本では珍しい存在です。
主体ないし意識の同一性という哲学の難問に取り組む、素晴らしい本です。しかし明解な答えを期待してはいけません。哲学とはそういうものです。哲学にもいろいろな立場がありますが、著者は心身二元論でも、物質主義(唯物論)でもなさそうです。恐らく一元論といってよいのでしょう。なぜなら、1972年のノーベル生理学・医学賞を受賞したジェラルド・モーリス・エーデルマンの理論を多く参照するからです。エーデルマンは生理学者ですから神経細胞など物質的存在を無視しませんが、物質とは別に意識があるとはしません。物質的対象の性質として意識を捉えています。物理的領域(脳や身体)は因果的に閉じた系ですが、ベルグソンと同じようにその場の外界の状況を取り込んで、意識は環境世界と共にあることを主張します。エーデルマンの著作『Wider than the Sky;脳は空より広いか』は、難解だが、そのことをまるで詩のように語っています。
冒頭にドゥルーズが登場し、最後にドゥルーズの『差異と反復』からの引用で終わっています。同じものがそのまま持続するなら、主体の同一性が存在するのは当たり前のことになります。反復をわざわざ持ち出すことはありません。私たちの体は同じパターンの生理的反応を反復しています。その反復の中で差異を生み出しているにもかかわらず、身体も自分自身も絶対的に同一であることを前提にした議論に対して、ドゥルーズは異議を唱えているのです。「そうした諸反復から、絶えず幾ばくかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引きだしている――それが、現代におけるわたしたちの生であろう。p.211」と『差異と反復』から引用されています。
同一性の部屋に閉じ込められては息苦しいし、同一性が要求されるのは、フーコー的にいえば、人格が同一でなければ責任主体になれないという権力の圧力と捉えることもできます。
疑問がひとつ、同一性が崩れる解離性障害という精神疾患があるのですが、なぜこの疾患を事例として取り上げなかったのでしょう。
それはさておき、優れた論考の、読みごたえのある著作であることは間違いありません。
「正しい診断と正しい治療」というテーゼを相手にしません。ましてやDSM(アメリカ精神医学会の診断基準)などの診断基準も問題にしません。著者は精神科医ですから、フロイトやラカンの精神分析系であっても不思議ではありませんが、どうやらその系統でもなさそうです。脳の話が結構ありますので、脳の神経科学や認知科学で心や意識の問題は解けると考えているのかと思いきや、ベルクソンを持ち出しますので、そうではなさそうです。ベルグソンは脳科学に抗して自分の理論を展開した人ですから。オーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズ的にいえば、意識のハード・プロブレムに取り組む精神科医ということになります。現在の日本では珍しい存在です。
主体ないし意識の同一性という哲学の難問に取り組む、素晴らしい本です。しかし明解な答えを期待してはいけません。哲学とはそういうものです。哲学にもいろいろな立場がありますが、著者は心身二元論でも、物質主義(唯物論)でもなさそうです。恐らく一元論といってよいのでしょう。なぜなら、1972年のノーベル生理学・医学賞を受賞したジェラルド・モーリス・エーデルマンの理論を多く参照するからです。エーデルマンは生理学者ですから神経細胞など物質的存在を無視しませんが、物質とは別に意識があるとはしません。物質的対象の性質として意識を捉えています。物理的領域(脳や身体)は因果的に閉じた系ですが、ベルグソンと同じようにその場の外界の状況を取り込んで、意識は環境世界と共にあることを主張します。エーデルマンの著作『Wider than the Sky;脳は空より広いか』は、難解だが、そのことをまるで詩のように語っています。
冒頭にドゥルーズが登場し、最後にドゥルーズの『差異と反復』からの引用で終わっています。同じものがそのまま持続するなら、主体の同一性が存在するのは当たり前のことになります。反復をわざわざ持ち出すことはありません。私たちの体は同じパターンの生理的反応を反復しています。その反復の中で差異を生み出しているにもかかわらず、身体も自分自身も絶対的に同一であることを前提にした議論に対して、ドゥルーズは異議を唱えているのです。「そうした諸反復から、絶えず幾ばくかのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引きだしている――それが、現代におけるわたしたちの生であろう。p.211」と『差異と反復』から引用されています。
同一性の部屋に閉じ込められては息苦しいし、同一性が要求されるのは、フーコー的にいえば、人格が同一でなければ責任主体になれないという権力の圧力と捉えることもできます。
疑問がひとつ、同一性が崩れる解離性障害という精神疾患があるのですが、なぜこの疾患を事例として取り上げなかったのでしょう。
それはさておき、優れた論考の、読みごたえのある著作であることは間違いありません。
2023年7月3日に日本でレビュー済み
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期待していたのですが、タイトルと中身が一致していない。
他者に説明しようという配慮がない。
文体が読みにくい。
一番はやはり、看板と中身の不一致の問題ではなかろうかと。
他者に説明しようという配慮がない。
文体が読みにくい。
一番はやはり、看板と中身の不一致の問題ではなかろうかと。
2018年12月13日に日本でレビュー済み
興味深く読めた本ではあるが、なぜ私が一続きの私であるのかというタイトルにもある問いには、届いているようでとどいていないような、何かもどかしい部分を感じた。
私が思うに一続きの私というのは、つまりカント的に言えば超越論的統覚のことだと思うのだが、もっと社会的なというより法的なものではないだろうか。
人も原理的には動物と同じように第1の縮約のみで生きていけるのかもしれないが、同時に人というものは行為や発現に対してどうしようもないほど責めを負う、つまり法的な主体を課せられる生き物だということだ。
例えば嫌だから逃げる、欲しいから手に入れる、むかつくから殺す、愛おしいから抱きしめると、その時その時の情動にまかせて生き、過去の行為を反省することもなく、その行為が未来にどのような影響を与えるかも考慮することなければ、その個体はもはや社会では生きていけないだろう。
というよりミシェル・フーコーのいうように、近代以降の社会は常に自己の行為をモニタリングするように強いるのだ。
契約書にサインをするときに名前を書かなければならないのも、そして名前を書くことができるもの、その名前を書いた人物が過去と未来にわたって同一であると社会が要請し、また自らもそれに同意するからに他ならない。
本書には一続きの私の自明性が崩壊した人々が多く登場するが、なぜ彼/彼女らが病気とされ、精神医学の対象とされ、精神病院でしか生活していけないのか、それはまさに彼/彼女らが現代社会の中では生存を許されていないという何よりの証拠ではないのか。
本書でも自己の成立の根拠として他者の重要性が説かれているが、どうも二者関係で終わってしまっている気がする。
その二者もより大きな文脈、つまり社会によって規定されているのだろうし、もう少しそのあたりまで議論を進めて欲しかったというのが本音である。
私が思うに一続きの私というのは、つまりカント的に言えば超越論的統覚のことだと思うのだが、もっと社会的なというより法的なものではないだろうか。
人も原理的には動物と同じように第1の縮約のみで生きていけるのかもしれないが、同時に人というものは行為や発現に対してどうしようもないほど責めを負う、つまり法的な主体を課せられる生き物だということだ。
例えば嫌だから逃げる、欲しいから手に入れる、むかつくから殺す、愛おしいから抱きしめると、その時その時の情動にまかせて生き、過去の行為を反省することもなく、その行為が未来にどのような影響を与えるかも考慮することなければ、その個体はもはや社会では生きていけないだろう。
というよりミシェル・フーコーのいうように、近代以降の社会は常に自己の行為をモニタリングするように強いるのだ。
契約書にサインをするときに名前を書かなければならないのも、そして名前を書くことができるもの、その名前を書いた人物が過去と未来にわたって同一であると社会が要請し、また自らもそれに同意するからに他ならない。
本書には一続きの私の自明性が崩壊した人々が多く登場するが、なぜ彼/彼女らが病気とされ、精神医学の対象とされ、精神病院でしか生活していけないのか、それはまさに彼/彼女らが現代社会の中では生存を許されていないという何よりの証拠ではないのか。
本書でも自己の成立の根拠として他者の重要性が説かれているが、どうも二者関係で終わってしまっている気がする。
その二者もより大きな文脈、つまり社会によって規定されているのだろうし、もう少しそのあたりまで議論を進めて欲しかったというのが本音である。
2018年10月26日に日本でレビュー済み
人間の意識における「同一性」の機能がどのように立ち上がってきて、それがどのような役割を果たしているのか。また、その機能が損なわれるとどうなるのか。これらについて、脳科学や精神病理学とともに、ベルクソンやドゥルーズの哲学を用いて、分かりやすく説かれている。
著者によれば、人間の意識の一貫性や連続性は、「ものに触発され続け、それに名付け続けること」によって成立しているとし、そのためには言語が必要であり、そしてそこに「愛の可能性が割って入る」としている。これは、人間が発達するごく初期から他者との交流の中で言葉を獲得し、成長していくからであり、これにより、「自己の一貫性があくまでも他者の眼差し、他者との同期によって受身的に生ずるもの」としている。
また、このような我々の同一性を確保する機能の重要性を指摘する一方、その機能を獲得することで、失われるものがあるのではないか、という問題提起も行っている。著者は、この機能を「おそらく人間の条件のようなもの」としているが、「新たなカテゴリー的直感あるいは種の生成と関わる詩など」は、この機能を「ある程度緩めなければ可能ではない」としている。これは、著者が精神病理学の専門家である一方で、詩人でもあることに関係しているかもしれない。
全体を通じて、臨床での具体的な事例を踏まえており、説得力がある。特に、統合失調症を発症し、行方不明になっていた男性が、20年ぶりに母と再会し、飼い方が難しい亀であるマタマタを情熱を持って飼うことで、寛解を果たしたという事例は感動的だ。これを、ドゥルーズの「内在平面(言語や概念を生み出す原基)」という概念を用いて解説しており、「母親の、すべてを投げうちしかも何も期待しない母体のような環境整備」と「マタマタを飼うという概念とそれを支える内在平面の往復運動が、マタマタを飼う男性を再生します」としている。
著者は、「今ここでの私たちの体験の苦しさについて何事かを教え、語ってくれるかどうか、ただそれだけが哲学に対して私が持つ関心なのです」と述べているとおり、学術的な記述ともに、熱い気持ちが並存していて、大きく心動かされるものがある。お勧めです。
著者によれば、人間の意識の一貫性や連続性は、「ものに触発され続け、それに名付け続けること」によって成立しているとし、そのためには言語が必要であり、そしてそこに「愛の可能性が割って入る」としている。これは、人間が発達するごく初期から他者との交流の中で言葉を獲得し、成長していくからであり、これにより、「自己の一貫性があくまでも他者の眼差し、他者との同期によって受身的に生ずるもの」としている。
また、このような我々の同一性を確保する機能の重要性を指摘する一方、その機能を獲得することで、失われるものがあるのではないか、という問題提起も行っている。著者は、この機能を「おそらく人間の条件のようなもの」としているが、「新たなカテゴリー的直感あるいは種の生成と関わる詩など」は、この機能を「ある程度緩めなければ可能ではない」としている。これは、著者が精神病理学の専門家である一方で、詩人でもあることに関係しているかもしれない。
全体を通じて、臨床での具体的な事例を踏まえており、説得力がある。特に、統合失調症を発症し、行方不明になっていた男性が、20年ぶりに母と再会し、飼い方が難しい亀であるマタマタを情熱を持って飼うことで、寛解を果たしたという事例は感動的だ。これを、ドゥルーズの「内在平面(言語や概念を生み出す原基)」という概念を用いて解説しており、「母親の、すべてを投げうちしかも何も期待しない母体のような環境整備」と「マタマタを飼うという概念とそれを支える内在平面の往復運動が、マタマタを飼う男性を再生します」としている。
著者は、「今ここでの私たちの体験の苦しさについて何事かを教え、語ってくれるかどうか、ただそれだけが哲学に対して私が持つ関心なのです」と述べているとおり、学術的な記述ともに、熱い気持ちが並存していて、大きく心動かされるものがある。お勧めです。
2019年11月6日に日本でレビュー済み
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医学的、脳科学的な視点から自己を再定義する、自己とはという哲学的な問いに答える
といった内容を期待して読んだため評価は星一つです。
筆者が他人から聞いた症例をもとにベルクソンの認識論的にはと
繰り返し説明がなされますが筆者がベルクソンを理解していないのか、説明を省いているのか説得力がありません。
医学的な分野でお偉い方のようですが、実際の症例も大したことがなく医学者でなくても書ける内容となってます。
この分野に造詣の深い方であれば読む必要がない本ですし、詳しくない方であればこの本は向いていないでしょう。
様々な学者等のお名前を出すのが好きな方のようですが、引用の必要性も感じないですし筆者の自己満足でしかありません。
なぜ私は一続きの私であるのかをテーマとして書かれたエッセイと考えた方がしっくりきます。
繰り返しになりますが
医学的、脳科学的な視点から一続きの私とは?の問いに答える
ことを期待している方は時間とお金の無駄ですのでご注意を
といった内容を期待して読んだため評価は星一つです。
筆者が他人から聞いた症例をもとにベルクソンの認識論的にはと
繰り返し説明がなされますが筆者がベルクソンを理解していないのか、説明を省いているのか説得力がありません。
医学的な分野でお偉い方のようですが、実際の症例も大したことがなく医学者でなくても書ける内容となってます。
この分野に造詣の深い方であれば読む必要がない本ですし、詳しくない方であればこの本は向いていないでしょう。
様々な学者等のお名前を出すのが好きな方のようですが、引用の必要性も感じないですし筆者の自己満足でしかありません。
なぜ私は一続きの私であるのかをテーマとして書かれたエッセイと考えた方がしっくりきます。
繰り返しになりますが
医学的、脳科学的な視点から一続きの私とは?の問いに答える
ことを期待している方は時間とお金の無駄ですのでご注意を