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異常とは何か (講談社現代新書) 新書 – 2010/4/16
小俣 和一郎
(著)
精神医学を根底から問い直す画期的論考!
人類は狂気とどう向き合ってきたか。自殺の主因を「うつ病」に求めていいのか。健康ブーム、アンチエイジング医学に潜む危険な兆候とは──〈異常〉と〈正常〉の線引きを歴史的に検証し、人間の精神とはなにかを改めて考える。
人類は狂気とどう向き合ってきたか。自殺の主因を「うつ病」に求めていいのか。健康ブーム、アンチエイジング医学に潜む危険な兆候とは──〈異常〉と〈正常〉の線引きを歴史的に検証し、人間の精神とはなにかを改めて考える。
- 本の長さ248ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2010/4/16
- ISBN-104062880490
- ISBN-13978-4062880497
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商品の説明
著者について
小俣 和一郎
一九五〇年、東京都生まれ。精神科医・精神医学史家。上野メンタル・クリニック院長。著書に『ナチスもう一つの大罪』『近代精神医学の成立』(以上、人文書院)、『精神医学とナチズム』(講談社現代新書)、『ドイツ精神病理学の戦後史』(現代書館)、『精神病院の起源』『精神病院の起源・近代篇』(以上、太田出版)、『精神医学の歴史』(第三文明)など多数。訳書にセレニー『人間の暗闇』、フォン・ラング『アイヒマン調書』(以上、岩波書店)、共訳書にグリージンガー『精神病の病理と治療』(東京大学出版会)などがある。
一九五〇年、東京都生まれ。精神科医・精神医学史家。上野メンタル・クリニック院長。著書に『ナチスもう一つの大罪』『近代精神医学の成立』(以上、人文書院)、『精神医学とナチズム』(講談社現代新書)、『ドイツ精神病理学の戦後史』(現代書館)、『精神病院の起源』『精神病院の起源・近代篇』(以上、太田出版)、『精神医学の歴史』(第三文明)など多数。訳書にセレニー『人間の暗闇』、フォン・ラング『アイヒマン調書』(以上、岩波書店)、共訳書にグリージンガー『精神病の病理と治療』(東京大学出版会)などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2010/4/16)
- 発売日 : 2010/4/16
- 言語 : 日本語
- 新書 : 248ページ
- ISBN-10 : 4062880490
- ISBN-13 : 978-4062880497
- Amazon 売れ筋ランキング: - 857,246位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,478位講談社現代新書
- - 39,756位医学・薬学・看護学・歯科学
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年4月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
序盤は建前的記述が続きますが、真ん中あたりからガゼン面白くなります。「異常ってなんだろう?」と少しでも考えたことのある人ならきっと納得する内容です。
2011年1月28日に日本でレビュー済み
精神の異常について、精神科医が論じた新書。「常でないから異常。じゃあその常ってナンなの?」という問題提起から始まり、精神医学での取り扱い、正常の過剰態としての異常が引き起こす悲劇を取り上げながら、問題提起に答える構成。
時代が変わったのだから、「正常」の概念も変わっているはずだ。自らが「異常」と診断したものに一律・無反省に治療するのではなく、熟慮と寛容をもって臨むべきだ。終章で示されるこのへんの主張には、十分納得がいきます。
しかし、この結論から内容を改めて見渡すに、狂気を表す言葉の変遷であったり、ナチズムに関するかなり詳細な記述など、新書の尺に収めるにはちょっと寄り道が多くて発散気味な印象。特に序盤は脱落しそうになるほどつらかったです。
時代が変わったのだから、「正常」の概念も変わっているはずだ。自らが「異常」と診断したものに一律・無反省に治療するのではなく、熟慮と寛容をもって臨むべきだ。終章で示されるこのへんの主張には、十分納得がいきます。
しかし、この結論から内容を改めて見渡すに、狂気を表す言葉の変遷であったり、ナチズムに関するかなり詳細な記述など、新書の尺に収めるにはちょっと寄り道が多くて発散気味な印象。特に序盤は脱落しそうになるほどつらかったです。
2018年6月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
●むしろ「正常とは何か」が重要
実際は本書の著者もそういう認識であり、冒頭「まえがき」で言及している:
「異常とは何かという問いが難しかったように、あるいは、それ以上に難しいかもしれない正常とは? を最初から問うことは、私の力量を明らかに超えている。」
本書は、主として「異常とは何か」を論じつつ、巻末近くにおいて改めて「正常とは何か」に言及する、という構成になっている。
●本書全体としては
本書を単独で読む限りは十分な内容に思えなくもない。が、ついつい先人たちの実績と比べてしまう。
酷な言い方だが本書は、著者・小俣 氏よりも上の世代の精神医学者である木村敏 氏の『異常の構造』(講談社現代新書・昭和48年)で既に論じられた内容、あるいはそこまで至っていない。『異常の構造』ではさらに、正常とか常識とは何か、について本書より一層踏み込んだ指摘がなされている。
●対極・正反対な対立項としての 【異常 ←→ 正常】、ではない
異常と正常の関係性については著者も苦慮しているようだが、本書で一つの(=検討段階の)モデルとして提示される 【異常 ←→ 正常】(第四章 3、図B1)は、やはり違う。木村氏と同世代の精神医学者 安永浩 氏の「ファントム理論」を援用すれば:
・ごく単純には「異常とは非・正常である」。対して「正常とは非・異常である」では不十分、または意味不明である。
・定義や説明が容易でないにもかかわらず、我々は「正常」を、体験上理解できている。「自明のこと」としか言いようがない。
・両者の関係は非対称で、正常が優位である:【正常 → 異常】。これは別種の対立項、例えば【左・右】、【女・男】等々とは異質である。
著者も 【異常 ←→ 正常】 では説明不十分とし、別のモデルを提示する(第四章 4、図C)。なかなかユニークではあるが、安永氏の指摘する非対称性は見受けられない。
実際は本書の著者もそういう認識であり、冒頭「まえがき」で言及している:
「異常とは何かという問いが難しかったように、あるいは、それ以上に難しいかもしれない正常とは? を最初から問うことは、私の力量を明らかに超えている。」
本書は、主として「異常とは何か」を論じつつ、巻末近くにおいて改めて「正常とは何か」に言及する、という構成になっている。
●本書全体としては
本書を単独で読む限りは十分な内容に思えなくもない。が、ついつい先人たちの実績と比べてしまう。
酷な言い方だが本書は、著者・小俣 氏よりも上の世代の精神医学者である木村敏 氏の『異常の構造』(講談社現代新書・昭和48年)で既に論じられた内容、あるいはそこまで至っていない。『異常の構造』ではさらに、正常とか常識とは何か、について本書より一層踏み込んだ指摘がなされている。
●対極・正反対な対立項としての 【異常 ←→ 正常】、ではない
異常と正常の関係性については著者も苦慮しているようだが、本書で一つの(=検討段階の)モデルとして提示される 【異常 ←→ 正常】(第四章 3、図B1)は、やはり違う。木村氏と同世代の精神医学者 安永浩 氏の「ファントム理論」を援用すれば:
・ごく単純には「異常とは非・正常である」。対して「正常とは非・異常である」では不十分、または意味不明である。
・定義や説明が容易でないにもかかわらず、我々は「正常」を、体験上理解できている。「自明のこと」としか言いようがない。
・両者の関係は非対称で、正常が優位である:【正常 → 異常】。これは別種の対立項、例えば【左・右】、【女・男】等々とは異質である。
著者も 【異常 ←→ 正常】 では説明不十分とし、別のモデルを提示する(第四章 4、図C)。なかなかユニークではあるが、安永氏の指摘する非対称性は見受けられない。
2010年10月1日に日本でレビュー済み
さまざまな語源を駆使したりして、博引旁証で精神病の位相を述べる文にはなかなか説得力がある。この著者は精神科医であると同時に精神医学史家であるだけあっていろいろと物知りなようだ。
異常というものの正体は知りようがない。それが精神的なものでも身体的なものでも、ある種のメビウスの輪のように正常とくっつき、時と場合によってぐるぐると移動する。その移動の上で歴史の事象は大にせよ小にせよ形作られていく。われわれは普段何気なく正常と異常を区別して生きているようだが、それは不変のものではない。ナチスドイツの冷酷な行為も今の現実から見れば異常だが、その当事者たちが決して嗜虐的ではなかったことから窺えるように、普通な人間がそういうことをする可能性はあるのである。それに、ナチスドイツ施政下の人々が殺人やその他を命令されて行うことは、今の日本で生きている人々が政府に従って行動していることと、たしかに違うとはいえ、「みんなと同じ行為をする」という点でくくることもできるのである。
どういう時にも自分のスタンスを変えない人なら、自分の人生を通して異常なことに自分を任せることはないのかもしれない。だがそれが正しいとは限らないし、人間はそんなにも自分本位で生きていけるものではないだろう。なやましいところだ。
異常というものの正体は知りようがない。それが精神的なものでも身体的なものでも、ある種のメビウスの輪のように正常とくっつき、時と場合によってぐるぐると移動する。その移動の上で歴史の事象は大にせよ小にせよ形作られていく。われわれは普段何気なく正常と異常を区別して生きているようだが、それは不変のものではない。ナチスドイツの冷酷な行為も今の現実から見れば異常だが、その当事者たちが決して嗜虐的ではなかったことから窺えるように、普通な人間がそういうことをする可能性はあるのである。それに、ナチスドイツ施政下の人々が殺人やその他を命令されて行うことは、今の日本で生きている人々が政府に従って行動していることと、たしかに違うとはいえ、「みんなと同じ行為をする」という点でくくることもできるのである。
どういう時にも自分のスタンスを変えない人なら、自分の人生を通して異常なことに自分を任せることはないのかもしれない。だがそれが正しいとは限らないし、人間はそんなにも自分本位で生きていけるものではないだろう。なやましいところだ。
2010年4月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
精神科医である著者が日常的に接している「異常」について、その歴史的な捉えられ方の変遷を踏まえつつ、改めて現代における認識のあり方を問い直した本。狂気が神秘・宗教的な畏怖の対象と紙一重にあった時代から、近代医療によって包囲され脳の「異常」以外ではなくなってしまったという展開をまず踏まえ、続いて、現代社会における正常と異常の線分をめぐり、色々と論じていく。
正常の過剰としての異常、というのが特に本書のポイントである。会社でまじめに働く人間や、家族の期待に応えようと必死でがんばる人々が、まじめにがんばり過ぎるがゆえにウツになり身心に障害を起す。健康に気を使いすぎる社会が、あまりの健康不安ゆえの苦悩を生む。あるいは、アウシュビッツという最高レベルの黒歴史もまた、実に経済合理的な人間利用により運営され、生真面目で仕事熱心な人物によって具体的に動かされていた。異常とは、正常の欠如態というよりも、むしろ人間の正常さが度を超したときに発生してくるのではないか、と、著者は過去と現代の事例を往還しながら思索を深めていく。
「異常」という認識のあり方を、「正常」の反対ではなくあくまでものその延長上に置きなおそうと試みる著者の意図ゆえ、意想外な議論により読者の蒙を拓くというよりも、常識的な発想を具体的な議論の積み重ねにより拡張することで、奥行きのある認識を構築していく、という感触があった。そのためひとつの論考としてはあまり刺激的ではなかったが、しかし人間の精神状態に対する奥深いものの見方を得るためのヒントは、数多く与えてくれる。
正常の過剰としての異常、というのが特に本書のポイントである。会社でまじめに働く人間や、家族の期待に応えようと必死でがんばる人々が、まじめにがんばり過ぎるがゆえにウツになり身心に障害を起す。健康に気を使いすぎる社会が、あまりの健康不安ゆえの苦悩を生む。あるいは、アウシュビッツという最高レベルの黒歴史もまた、実に経済合理的な人間利用により運営され、生真面目で仕事熱心な人物によって具体的に動かされていた。異常とは、正常の欠如態というよりも、むしろ人間の正常さが度を超したときに発生してくるのではないか、と、著者は過去と現代の事例を往還しながら思索を深めていく。
「異常」という認識のあり方を、「正常」の反対ではなくあくまでものその延長上に置きなおそうと試みる著者の意図ゆえ、意想外な議論により読者の蒙を拓くというよりも、常識的な発想を具体的な議論の積み重ねにより拡張することで、奥行きのある認識を構築していく、という感触があった。そのためひとつの論考としてはあまり刺激的ではなかったが、しかし人間の精神状態に対する奥深いものの見方を得るためのヒントは、数多く与えてくれる。
2011年1月11日に日本でレビュー済み
日本におけるナチス関連第一人者である精神科医の「異常」考察論。
「異常」には文化的・社会的流行と変遷がある
「正常とは過剰にまでは至らない中庸的な様態」である
アウシュビッツはどこにでも起きうる、というのが衝撃的だか読んでいてよくわかる。
代表的な加害者についての分析は必読。
「狂人だからあんな犯罪ができた」と片づけてしまえれば、どんなにか楽なことだろう。
でもそうではないのだ。という恐ろしいことがわかってくると、自分の立っている場所が実に頼りないものに思えてくる。
「魔女狩り」「精神病」「メタボ」「新型インフルエンザ」…人はすぐに「正常」でなくなる…。
メランコリー型性格…自分も含めどこぞの国のサラリーマンにたくさんいそうで、恐ろしい。。。
「多少の熟慮と寛容さ」「心の自然」…人間の精神と他人に対するあり方について、深く考えさせられる本である。
マスコミや他人に流されることなく、どうやって「中庸的な様態」に留まっていられるだろうかと考えてしまった。
「異常」には文化的・社会的流行と変遷がある
「正常とは過剰にまでは至らない中庸的な様態」である
アウシュビッツはどこにでも起きうる、というのが衝撃的だか読んでいてよくわかる。
代表的な加害者についての分析は必読。
「狂人だからあんな犯罪ができた」と片づけてしまえれば、どんなにか楽なことだろう。
でもそうではないのだ。という恐ろしいことがわかってくると、自分の立っている場所が実に頼りないものに思えてくる。
「魔女狩り」「精神病」「メタボ」「新型インフルエンザ」…人はすぐに「正常」でなくなる…。
メランコリー型性格…自分も含めどこぞの国のサラリーマンにたくさんいそうで、恐ろしい。。。
「多少の熟慮と寛容さ」「心の自然」…人間の精神と他人に対するあり方について、深く考えさせられる本である。
マスコミや他人に流されることなく、どうやって「中庸的な様態」に留まっていられるだろうかと考えてしまった。
2010年6月6日に日本でレビュー済み
異常とそれに類する言葉を時代や文化を通して考察する前半は、焦点がぼけてしまったかのようで、
論旨が伝わりにくい。
言葉の意味というものは、時代によって変わっていくもの、それに言葉はその国の文化に根ざしています。
異常は異能者に繋がるものと考えますが、全く生活から疎外されたものでもなく、時代によっては畏怖を持って
迎えられていたものと想います。
こんな観点が伝わりにくいと思います。
アウシュビッツに関与した人物が、メランコリー型と定義される、非常にまじめで秩序に従う性格であったことから、
大量虐殺に関与する結果になったとは、思えません。
人は、確かに陽動されたり、刷り込まれたり(洗脳)するものですが、その仕組みに迫りつつ、論旨を広げてもらいたかった。
論旨が伝わりにくい。
言葉の意味というものは、時代によって変わっていくもの、それに言葉はその国の文化に根ざしています。
異常は異能者に繋がるものと考えますが、全く生活から疎外されたものでもなく、時代によっては畏怖を持って
迎えられていたものと想います。
こんな観点が伝わりにくいと思います。
アウシュビッツに関与した人物が、メランコリー型と定義される、非常にまじめで秩序に従う性格であったことから、
大量虐殺に関与する結果になったとは、思えません。
人は、確かに陽動されたり、刷り込まれたり(洗脳)するものですが、その仕組みに迫りつつ、論旨を広げてもらいたかった。
2012年1月29日に日本でレビュー済み
ものの見方の根本を問い、かつ複雑な命題を新書という比較的ライトな媒体で扱うのはさぞかし難しかっただろうと思います。それゆえに論理の展開に少しばかりの難を感じました。
しかしこれは「異常とは何か」を前提に様々な例を列挙し、私たち自身に考えてほしいからだと思います。つまり、「こういうことがあった。しかし、今ではそれは良い(悪い)ことだというふうに変化している。『異常とは何か』を語るとき、私たちはこの変化をどのように見なければならないか」とか「当時正しかったこの考え方が今では正しくないとされている。では、昔の人は異常で今の人は正常なのか。そういう事実を目の当たりにしたとき、何が正常で何が異常かを私たちはじっくりと考えなければならないのではないか」ということです。
新書という媒体で私たちが納得いく解答を明示するのは、たとえ著者であれやぶさかではないでしょう。著者自身、続編を書くかもしれないと述べていますし。
ですが、私はこれでも充分だと思います。正常か異常か、絶えず移ろいゆくその概念について、何を正常か異常とするかは自分の〈良心〉の中に存在しているのだと私は思うのです。
しかしこれは「異常とは何か」を前提に様々な例を列挙し、私たち自身に考えてほしいからだと思います。つまり、「こういうことがあった。しかし、今ではそれは良い(悪い)ことだというふうに変化している。『異常とは何か』を語るとき、私たちはこの変化をどのように見なければならないか」とか「当時正しかったこの考え方が今では正しくないとされている。では、昔の人は異常で今の人は正常なのか。そういう事実を目の当たりにしたとき、何が正常で何が異常かを私たちはじっくりと考えなければならないのではないか」ということです。
新書という媒体で私たちが納得いく解答を明示するのは、たとえ著者であれやぶさかではないでしょう。著者自身、続編を書くかもしれないと述べていますし。
ですが、私はこれでも充分だと思います。正常か異常か、絶えず移ろいゆくその概念について、何を正常か異常とするかは自分の〈良心〉の中に存在しているのだと私は思うのです。