著者 徐京植は、在日二世で、二人の兄たちは、確か死刑か無期懲役の政治犯として、韓国国内で長期に亘り拘束されていた。
日本国内での、マイノリティーとしての「在日非特権」、差別、迫害を身近に感じながら、祖国韓国においては、最愛の兄たちが過酷な尋問や、拷問に耐えていた日々を、同時に生きてきたことを考えると、徐京植の国家や国境、民族、差別、権力、抵抗、家族、生きることの思索は、我々ナマクラマジョリティは、恥かしながら足元にも及ぶまい。
ただ、21世紀、いつまでも国家という呪縛にとらわれて、ナショナリズムだとか、固有文化だとか、靖国の英霊だとかに脅され続けるのはもう真っ平御免だ。
「在日特権を許さない」んじゃなくて、国内外特権階級の特権を許さないんじゃないのか?
世界中のディアスポラや、飢餓、貧困、差別に苦しむ世界市民に対して、我々が為すべき事は、日本国内の特権階級(資本家、議員、公務員、大企業正社員、宗教法人、広域暴力団などなど)の特権をむしり取ることと、彼らの富を世界中に再配分することじゃないか?
国民国家の地平に立脚する民主党政権では、外国人参政権もおぼつかない。米国の帝國主義侵略政策にも反対できまい。
今必要なのは、インターナショナルな革命戦略をぶち上げることのできる、世界統一戦線とその勇敢なる兵士だろう。
徐京植は、こんな夢物語を一笑に付すだろう。日本国内のマイノリティーの状況は、ちっとも改善しないし、真っ当な人生を生きるには、難しすぎる現実があるから。
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ディアスポラ紀行: 追放された者のまなざし (岩波新書 新赤版 961) 新書 – 2005/7/20
徐 京植
(著)
- 本の長さ211ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/7/20
- ISBN-104004309611
- ISBN-13978-4004309611
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
出自の共同体から追放され、離散を強いられたディアスポラたち。自らもその一人である著者が、韓国や欧州への旅の中で出会った出来事や芸術に、「近代」という暴力の痕跡を見る。「近代以後」の人間を考えるエッセイ。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/7/20)
- 発売日 : 2005/7/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 211ページ
- ISBN-10 : 4004309611
- ISBN-13 : 978-4004309611
- Amazon 売れ筋ランキング: - 384,071位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,800位岩波新書
- - 37,305位ビジネス・経済 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年7月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年10月19日に日本でレビュー済み
いかに自分が生きてきた人生が、あるいは思考様式が、「国民国家」というものを所与のものとしてきたか。そして、いかに我々はそのような枠組みによって決して保護されることのない「ディアスポラ」の存在を意識してこなかったか・・・。
読んでいてガツンとくるような重い問いかけです。「ディアスポラ」を生んだ「近代」とはいかなる時代だったのでしょうか?「ポスト近代」が叫ばれる今日、「近代」を乗り越えるにはどうすればよいのでしょうか?
P67「ナショナリズムを超えるということは、「先進国」という安楽な場所で、「先進国」人としての既得権を疑いもなく享受しながら、他者をナショナリストと名指ししていればこと足りるのではない。被抑圧者が抵抗のためにナショナリズムを必要とする状況、被抑圧者をナショナリズムへと結集させている抑圧構造、それを克服するのでなければ、少なくとも克服しようという意志と方向性を欠いていては、その言説は、「ナショナリズム」をではなく、「抵抗」を無力化する力としてのみ作用するだろう。」
もっともだと思います。ホブズボウムは、20世紀を「極端な時代」と呼んでいます。では、何が20世紀を「極端」にしてしまったのでしょうか?その一つのファクターとして「国民国家」があるのは否定できないでしょう。「極端」な「近代」を乗り越えるには、いかに自分が「国民国家」という権力の上に座っているか、そのような自分の地位がいかなる他者の犠牲の上に成り立っているか、いかに自分の思考がそのような見えない権力関係の上に基づいているかを自覚しなければならないと思います。在日朝鮮人という「ディアスポラ」による問題提起は、我々「日本人」にとって無視できない重たいものです。
読んでいてガツンとくるような重い問いかけです。「ディアスポラ」を生んだ「近代」とはいかなる時代だったのでしょうか?「ポスト近代」が叫ばれる今日、「近代」を乗り越えるにはどうすればよいのでしょうか?
P67「ナショナリズムを超えるということは、「先進国」という安楽な場所で、「先進国」人としての既得権を疑いもなく享受しながら、他者をナショナリストと名指ししていればこと足りるのではない。被抑圧者が抵抗のためにナショナリズムを必要とする状況、被抑圧者をナショナリズムへと結集させている抑圧構造、それを克服するのでなければ、少なくとも克服しようという意志と方向性を欠いていては、その言説は、「ナショナリズム」をではなく、「抵抗」を無力化する力としてのみ作用するだろう。」
もっともだと思います。ホブズボウムは、20世紀を「極端な時代」と呼んでいます。では、何が20世紀を「極端」にしてしまったのでしょうか?その一つのファクターとして「国民国家」があるのは否定できないでしょう。「極端」な「近代」を乗り越えるには、いかに自分が「国民国家」という権力の上に座っているか、そのような自分の地位がいかなる他者の犠牲の上に成り立っているか、いかに自分の思考がそのような見えない権力関係の上に基づいているかを自覚しなければならないと思います。在日朝鮮人という「ディアスポラ」による問題提起は、我々「日本人」にとって無視できない重たいものです。
2010年4月6日に日本でレビュー済み
本書で言う「ディアスポラ」とは、「何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔を指す」と定義されている(2頁)。在日朝鮮人である筆者自身も、その一人に数えられる。
この本で著者は、ヨーロッパ、そして朝鮮半島を旅しつつ、その地に刻まれたディアスポラ的な生の痕跡をたどり、それを手がかりにして、暴力と追放とによって離散の民を生み出した「近代」への思索を深めていく。その眼差しは、共同体の境界線の〈外〉から、近代という時代を問題化していく。
ただ、「近代国民国家の枠から放逐されたディアスポラにこそ、「近代以後」を生きる人間の存在形式が先取りされている」(208頁)という著者の思索の到達点については、評者としては(全面的にではないものの)必ずしも同意できない。本書がこだわり続けてきた「外的暴力によって生み出されたディアスポラ」が(国民国家と同様に)近代の所産であるとすれば、人々を共同体の内外に引き裂く「無慈悲な分離壁」としての国民国家と「ディアスポラ」とは、「近代」のある側面をそれぞれに表象している存在であろう。したがって、「近代以後」なる時代においてはおそらく、両者は―没落するにせよ、生き残るにせよ―その運命を共にするのではないだろうか。
その意味でこれは、著者の思いとは裏腹に、徹底して「近代」を論じた本である。
この本で著者は、ヨーロッパ、そして朝鮮半島を旅しつつ、その地に刻まれたディアスポラ的な生の痕跡をたどり、それを手がかりにして、暴力と追放とによって離散の民を生み出した「近代」への思索を深めていく。その眼差しは、共同体の境界線の〈外〉から、近代という時代を問題化していく。
ただ、「近代国民国家の枠から放逐されたディアスポラにこそ、「近代以後」を生きる人間の存在形式が先取りされている」(208頁)という著者の思索の到達点については、評者としては(全面的にではないものの)必ずしも同意できない。本書がこだわり続けてきた「外的暴力によって生み出されたディアスポラ」が(国民国家と同様に)近代の所産であるとすれば、人々を共同体の内外に引き裂く「無慈悲な分離壁」としての国民国家と「ディアスポラ」とは、「近代」のある側面をそれぞれに表象している存在であろう。したがって、「近代以後」なる時代においてはおそらく、両者は―没落するにせよ、生き残るにせよ―その運命を共にするのではないだろうか。
その意味でこれは、著者の思いとは裏腹に、徹底して「近代」を論じた本である。
2005年10月11日に日本でレビュー済み
人間誰しもが持つ、自分を自分として自分に繋ぎ止める深層心理は何か。それに対して唯一答え得るのが、アイデンティティー(自己の存在証明)だろう。自分は何なのか。どこからやって来てどこへ向かうのか。
それは決して誇張でも嘘偽りでもないはずだ。誰もがそれを疑問に抱えながら生きているはずだからである。それが確固とした揺らぎの無いものでなかったらどうであろうか。
ディアスポラとは「離散」という意味が表すように、不慮の事態によって自分の共同体から離れざるを得ない人々を指す。筆者もその一人の在日朝鮮人である。その彼は帰属意識をどこに持っていけばいいのか(日本人か朝鮮人か)、という答え無き答えと葛藤しながら世界各地の多様な「ディアスポラ」を体験・紹介していく。
大多数の人々が気付かない影について焦点を当てている。読了すれば人権について再考させられる貴重な一著だ。
それは決して誇張でも嘘偽りでもないはずだ。誰もがそれを疑問に抱えながら生きているはずだからである。それが確固とした揺らぎの無いものでなかったらどうであろうか。
ディアスポラとは「離散」という意味が表すように、不慮の事態によって自分の共同体から離れざるを得ない人々を指す。筆者もその一人の在日朝鮮人である。その彼は帰属意識をどこに持っていけばいいのか(日本人か朝鮮人か)、という答え無き答えと葛藤しながら世界各地の多様な「ディアスポラ」を体験・紹介していく。
大多数の人々が気付かない影について焦点を当てている。読了すれば人権について再考させられる貴重な一著だ。
2019年4月20日に日本でレビュー済み
本書は紀行文でもなんでも無い。思想書に近いと思う。
プロローグでディアスポラの原義と、普通名詞としてのディアスポラの意味が書かれているが、そこから自身を含める在日朝鮮人をコリアン・ディアスポラと呼ぶには、余りにも論理が飛躍し過ぎていると感じる。なぜなら、本書冒頭にに私自身がディアスポラであると書かれているが、プロローグを読む限り、著者の祖父は強制連行では無く自由意志で日本に移り住んでいるからだ。
本書で良かったのは、著者が収監されている実兄に面会に訪れた際の心境。これは経験した者にしか理解出来ない心情だが、非常に上手く伝えている。
また、アフリカ布についての指摘も驚いた。その様な悲しい事実があったとは。
プロローグでディアスポラの原義と、普通名詞としてのディアスポラの意味が書かれているが、そこから自身を含める在日朝鮮人をコリアン・ディアスポラと呼ぶには、余りにも論理が飛躍し過ぎていると感じる。なぜなら、本書冒頭にに私自身がディアスポラであると書かれているが、プロローグを読む限り、著者の祖父は強制連行では無く自由意志で日本に移り住んでいるからだ。
本書で良かったのは、著者が収監されている実兄に面会に訪れた際の心境。これは経験した者にしか理解出来ない心情だが、非常に上手く伝えている。
また、アフリカ布についての指摘も驚いた。その様な悲しい事実があったとは。