表題作「山月記」が読みたくて購入。
注目した語句。
「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である」(118頁)
「己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼い《ふとらせる(傍点あり)》結果になった」(118頁)
「己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」(118頁)
「山月記」は、「詩人に成りそこなって虎になった哀れな男」(117頁)の話です。
人を食った話とも言えます。
「酔わねばならぬ時が(虎に還らねばならぬ時が)」(119頁)
「山月記」の主人公の男「李徴」は、「虎」は虎でも、酔っ払いの「人喰虎」(113頁)です。
「妻子を苦しめ、友人を傷つけ」(118頁)る人でなし。
「秀作『山月記』は、唐の李景亮の書いた『人虎伝』に依り、作者はこれを練りなおして書いた」(411頁、解説より)とのこと。
《正誤表》
箇所: 114頁
誤: 草中の声
正: 叢中の声
理由: 表記の統一
「叢(くさむら)の中」(113頁)
「叢中の声」(116頁)
「叢中から慟哭(どうこく)の声」(119頁)
「叢の中からは」(120頁)
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山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫 緑 145-1) 文庫 – 1994/7/18
中島 敦
(著)
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三十三年余の短い一生に,珠玉の光を放つ典雅な作品を残した中島敦(一九〇九―四二).近代精神の屈折が,祖父伝来の儒家に育ったその漢学の血脈のうちに昇華された表題作をはじめ,『西遊記』に材を取って自我の問題を掘り下げた「悟浄出世」「悟浄歎異」,南洋への夢を紡いだ「環礁」など彼の真面目を伝える作十一篇. (解説 氷上英廣)
- ISBN-104003114515
- ISBN-13978-4003114513
- 出版社岩波書店
- 発売日1994/7/18
- 言語日本語
- 寸法10.5 x 2.5 x 14.8 cm
- 本の長さ421ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1994/7/18)
- 発売日 : 1994/7/18
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 421ページ
- ISBN-10 : 4003114515
- ISBN-13 : 978-4003114513
- 寸法 : 10.5 x 2.5 x 14.8 cm
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2023年7月17日に日本でレビュー済み
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2023年5月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中島敦が本当に33歳で亡くなったとは思えませんでした。というのも、書かれている文章が老獪だからです。
本書末に「解説」が載っており、本文庫に選んだ中島作品の基準として以下の3つがあげられています。これら3つがよく表れている作品が、本文庫に載せられたようです。
1つ目に、「彼の文章の特色、すなわち漢文調にもとづいた、硬質な、簡勁な、打てば錚々と鳴るような〈中略〉文体のもの」
2つ目に、「それは南洋的なもの」
3つ目に、「彼のメタフィジックな懐疑や存在論的な思索に根ざしているもの」
これらがそのまま中島敦の特徴と言えるます。つまり彼の作品は、硬質で、南洋的で、哲学的なのです。
このうち、2つ目の「南洋的なもの」は、本文庫を読んでもあまり感じませんでした。本文庫において南洋的な雰囲気がするのは『環礁』の1つだけだったし、それが中島敦の特徴であったとしても、魅力であるとはどういうことかわからなかったので。
けれど、1つ目と3つ目の特徴は本文庫を読んで十分に魅力として感じられるのものでした。そして、この硬質で哲学的な魅力が、彼の老獪さを感じる理由なのです。まずは、哲学な魅力を感じる部分から紹介します。
作品『李陵』に次のような一文があります。これは、漢出身の主人公・李陵が、匈奴の捕虜になった際、匈奴の王である単于から言われた、漢に対する皮肉です。
「漢の人間が二言目には、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行を以て禽獣に近いと見做すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を妬むこと、漢人と胡人といずれか甚だしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれか甚だしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟何らの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。」
現代語に訳すと(訳さなくても通じるでしょうが)「漢人は我々匈奴を野蛮だと見下しているが、自分たちだって醜い部分をもっているではないか。違いは、我々匈奴はそれを隠さないし、漢人は隠すことによるもの。どっちが野蛮だ。隠す方がよっぽど野蛮じゃないか。」となります。
30代前半の、まだ青臭さが残る年の頃に、どうしてこんな人生を悟ったようなことが書けるのか。中島敦が『李陵』をいつ書いたのか正確にはわかりませんが、遅くとも30代前半です。30代前半と言えば、20代の名残もあり、まだまだ人生を達観するには早すぎます。現代のビジネスマンで30代前半といえば、仕事を精力的に数や勢いでこなす年頃でしょう。
それなのに、中島はすでに人生を達観しています。マウントを取る側と取られる側の関係を、表面的にだけでなく、その内部にも入って分析している。しかも、その分析を、読み手を「なるほど」と説得する程度に表現できているのです。
次は、『弟子』という作品からの一文。
「生涯孔子の番犬に終わろうとも、いささかの悔も無い。世俗的な虚栄心が無い訳ではないが、なまじいの使官はかえって己の本領たる磊落闊達を害するものだと思っている」
孔子の弟子である主人公・子路(しろ)の気持ちです。子路は元々、「稚気満々たる人物」でありましたが、孔子に出会い、その大きさに圧倒されて弟子になった人物。その子路が葛藤し、子路の内面が描かれた場面です。これも30代前半の若書きとは思えない老獪さ。上昇志向を虚栄心などと悟るには、まだまだ早すぎる年頃だからです。「虚栄心」を「世俗的」だの、「使官はかえって……磊落闊達を害する」だの、一般的に言われる華やかさを俯瞰して虚しいと見ており、人生を一通り経験してきたかのような書きっぷりです。
最後に、硬質な魅力を感じる一文を紹介しましょう。哲学的な魅力を感じるとして紹介した上記2つの文からも、硬質な魅力は伝わると思います。それにつけ加えて紹介する一文です。『名人伝』の中の一文。
『やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月の如くに絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて来るではないか』
弓の名人である主人公・紀章が、弓の仙人・甘ようが弓を射るのを見た場面。手に何も持っていないはずの甘ようが、上空のトビを射たところ。この後、紀章は「慄然」とし、「芸道の深淵を覗き得た心地」をして、この甘ように弟子入りすることになります。
この一文を硬質さを伝える例としてあげたのは、これが本書の中で一番くだけた場面だからです。もっとも硬質さを伝えにくいシーンなのです。甘ようの弓矢の凄まじさを表現したく、「ひょう」という擬音語まで使っています。擬音語を使うと、大抵はその場面がくだけるもの。ドラゴンボールのような少年漫画で言えば、「ドカ!」「バキ!」の戦闘シーン。堅苦しい論文で擬音語は使われないように(たぶん)、擬音語は硬質さとは離れた関係にあります。けれどそんな、擬音語を使って一般的にくだけるような場面でさえ、中島作品においては、この程度のくだけ具合なのです。くだけたシーンでさえ、一般的なレベルからいえば、まだまだ硬質なのです。
というわけで、哲学的な魅力と硬質的な魅力を感じる場面でした。このように中島敦の作品は、哲学的・硬質的で、すでに人生を一回経験したような書きっぷり。つまり老獪さを感じます。だから、33歳で亡くなった人間が書いたとは思えない作品群でした。
本書末に「解説」が載っており、本文庫に選んだ中島作品の基準として以下の3つがあげられています。これら3つがよく表れている作品が、本文庫に載せられたようです。
1つ目に、「彼の文章の特色、すなわち漢文調にもとづいた、硬質な、簡勁な、打てば錚々と鳴るような〈中略〉文体のもの」
2つ目に、「それは南洋的なもの」
3つ目に、「彼のメタフィジックな懐疑や存在論的な思索に根ざしているもの」
これらがそのまま中島敦の特徴と言えるます。つまり彼の作品は、硬質で、南洋的で、哲学的なのです。
このうち、2つ目の「南洋的なもの」は、本文庫を読んでもあまり感じませんでした。本文庫において南洋的な雰囲気がするのは『環礁』の1つだけだったし、それが中島敦の特徴であったとしても、魅力であるとはどういうことかわからなかったので。
けれど、1つ目と3つ目の特徴は本文庫を読んで十分に魅力として感じられるのものでした。そして、この硬質で哲学的な魅力が、彼の老獪さを感じる理由なのです。まずは、哲学な魅力を感じる部分から紹介します。
作品『李陵』に次のような一文があります。これは、漢出身の主人公・李陵が、匈奴の捕虜になった際、匈奴の王である単于から言われた、漢に対する皮肉です。
「漢の人間が二言目には、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行を以て禽獣に近いと見做すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を妬むこと、漢人と胡人といずれか甚だしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれか甚だしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟何らの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。」
現代語に訳すと(訳さなくても通じるでしょうが)「漢人は我々匈奴を野蛮だと見下しているが、自分たちだって醜い部分をもっているではないか。違いは、我々匈奴はそれを隠さないし、漢人は隠すことによるもの。どっちが野蛮だ。隠す方がよっぽど野蛮じゃないか。」となります。
30代前半の、まだ青臭さが残る年の頃に、どうしてこんな人生を悟ったようなことが書けるのか。中島敦が『李陵』をいつ書いたのか正確にはわかりませんが、遅くとも30代前半です。30代前半と言えば、20代の名残もあり、まだまだ人生を達観するには早すぎます。現代のビジネスマンで30代前半といえば、仕事を精力的に数や勢いでこなす年頃でしょう。
それなのに、中島はすでに人生を達観しています。マウントを取る側と取られる側の関係を、表面的にだけでなく、その内部にも入って分析している。しかも、その分析を、読み手を「なるほど」と説得する程度に表現できているのです。
次は、『弟子』という作品からの一文。
「生涯孔子の番犬に終わろうとも、いささかの悔も無い。世俗的な虚栄心が無い訳ではないが、なまじいの使官はかえって己の本領たる磊落闊達を害するものだと思っている」
孔子の弟子である主人公・子路(しろ)の気持ちです。子路は元々、「稚気満々たる人物」でありましたが、孔子に出会い、その大きさに圧倒されて弟子になった人物。その子路が葛藤し、子路の内面が描かれた場面です。これも30代前半の若書きとは思えない老獪さ。上昇志向を虚栄心などと悟るには、まだまだ早すぎる年頃だからです。「虚栄心」を「世俗的」だの、「使官はかえって……磊落闊達を害する」だの、一般的に言われる華やかさを俯瞰して虚しいと見ており、人生を一通り経験してきたかのような書きっぷりです。
最後に、硬質な魅力を感じる一文を紹介しましょう。哲学的な魅力を感じるとして紹介した上記2つの文からも、硬質な魅力は伝わると思います。それにつけ加えて紹介する一文です。『名人伝』の中の一文。
『やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月の如くに絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて来るではないか』
弓の名人である主人公・紀章が、弓の仙人・甘ようが弓を射るのを見た場面。手に何も持っていないはずの甘ようが、上空のトビを射たところ。この後、紀章は「慄然」とし、「芸道の深淵を覗き得た心地」をして、この甘ように弟子入りすることになります。
この一文を硬質さを伝える例としてあげたのは、これが本書の中で一番くだけた場面だからです。もっとも硬質さを伝えにくいシーンなのです。甘ようの弓矢の凄まじさを表現したく、「ひょう」という擬音語まで使っています。擬音語を使うと、大抵はその場面がくだけるもの。ドラゴンボールのような少年漫画で言えば、「ドカ!」「バキ!」の戦闘シーン。堅苦しい論文で擬音語は使われないように(たぶん)、擬音語は硬質さとは離れた関係にあります。けれどそんな、擬音語を使って一般的にくだけるような場面でさえ、中島作品においては、この程度のくだけ具合なのです。くだけたシーンでさえ、一般的なレベルからいえば、まだまだ硬質なのです。
というわけで、哲学的な魅力と硬質的な魅力を感じる場面でした。このように中島敦の作品は、哲学的・硬質的で、すでに人生を一回経験したような書きっぷり。つまり老獪さを感じます。だから、33歳で亡くなった人間が書いたとは思えない作品群でした。
2018年8月13日に日本でレビュー済み
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1950年代後半に、国語として漢文読み下し文を必修科目があった高校時代を過ごしましたので、中島敦の小説は漢文を活性化し駆使したものとして魅力を感じていました。
1942年に33年の短い一生の中で、珠玉の典雅な作品を残した中島敦は、持病の喘息が悪化して夭折してしまったのですが、その様な仕事をする作家は、歯ごたえの無い口語体文章が時代情勢から考えますと、もう出て来ることは無いのでしょう!
<font color=darkgreen>趙の時代、都邯鄲に、紀昌と言う男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。
当今、弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ物があろうとは思われず、その門に入った。
5年を掛けた日々の基礎訓練を経て、写術の奥義を会得し、師をも凌ぐ力量に達してしまいます。
そこで、師飛衛は弟子紀昌に、「この道の蘊奥を極めたいと望むならば、霍山頂きの甘蠅老師がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど児戯に値する」と諭す。
気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊の様な柔和な目をした、しかも酷くよぼよぼの爺さんであった。
「一通り出来るようじゃな、だが、それは所詮、射之射と言うもの、好漢未だ不射之射を知らぬと見える」と弓不要の芸道の深淵を見せたのです。
9年の間、紀昌は甘蠅老師の許に留まった。山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂は影をひそめ、木偶の如く愚者の如き容貌に変わっている。
旧師の飛衛は、「これでこそ天下の名人だ。我らの如き、足下にも及ぶものでない」と感嘆して叫んだ。
甘蠅老師の許を辞してから40年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去った。その40年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かったことから、弓矢を執っての活動などあろうはずも無い。
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の弦を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。</font>
僅か、文庫本で10ページの小編ですが、古来伝統となっていた漢文脈を活性化しつつ、それを駆使出来た最後の例の一つなのかも知れません。
1942年に33年の短い一生の中で、珠玉の典雅な作品を残した中島敦は、持病の喘息が悪化して夭折してしまったのですが、その様な仕事をする作家は、歯ごたえの無い口語体文章が時代情勢から考えますと、もう出て来ることは無いのでしょう!
<font color=darkgreen>趙の時代、都邯鄲に、紀昌と言う男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。
当今、弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ物があろうとは思われず、その門に入った。
5年を掛けた日々の基礎訓練を経て、写術の奥義を会得し、師をも凌ぐ力量に達してしまいます。
そこで、師飛衛は弟子紀昌に、「この道の蘊奥を極めたいと望むならば、霍山頂きの甘蠅老師がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど児戯に値する」と諭す。
気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊の様な柔和な目をした、しかも酷くよぼよぼの爺さんであった。
「一通り出来るようじゃな、だが、それは所詮、射之射と言うもの、好漢未だ不射之射を知らぬと見える」と弓不要の芸道の深淵を見せたのです。
9年の間、紀昌は甘蠅老師の許に留まった。山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂は影をひそめ、木偶の如く愚者の如き容貌に変わっている。
旧師の飛衛は、「これでこそ天下の名人だ。我らの如き、足下にも及ぶものでない」と感嘆して叫んだ。
甘蠅老師の許を辞してから40年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去った。その40年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かったことから、弓矢を執っての活動などあろうはずも無い。
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の弦を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。</font>
僅か、文庫本で10ページの小編ですが、古来伝統となっていた漢文脈を活性化しつつ、それを駆使出来た最後の例の一つなのかも知れません。
2022年7月5日に日本でレビュー済み
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武術は優劣を競うものではないと
武術は殺人の技術ではないと
人間は競うものではないと
国家は競うものではないと
中島は国民に伝えたかった
本作が戦時下で書かれたことを考えると
武術=科学技術=国家
中島は隠れ反戦主義者だった
蟹工船の惨殺の記憶がまだ生々しいなか
作品の発表には相当の気疲れがあった筈だ
誰も中島の本質を見抜く事ができなかった
(良かった良かった)
中島は様々な狂気を解消すべく
作品を書かざるを得ない作家だった
「名人伝」は別の文脈で読み継がれ
名声は永遠に残った 天才
今はこの国に 中島も希求した平和を感じる
武術は殺人の技術ではないと
人間は競うものではないと
国家は競うものではないと
中島は国民に伝えたかった
本作が戦時下で書かれたことを考えると
武術=科学技術=国家
中島は隠れ反戦主義者だった
蟹工船の惨殺の記憶がまだ生々しいなか
作品の発表には相当の気疲れがあった筈だ
誰も中島の本質を見抜く事ができなかった
(良かった良かった)
中島は様々な狂気を解消すべく
作品を書かざるを得ない作家だった
「名人伝」は別の文脈で読み継がれ
名声は永遠に残った 天才
今はこの国に 中島も希求した平和を感じる
2021年12月22日に日本でレビュー済み
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中島敦の代表作がこれ1冊で読めます。おすすめです。名人伝と山月記は特に名作です。
2009年7月23日に日本でレビュー済み
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中国のものより、「悟浄出世」「狼疾記」の系統のほうが読みたくて買いました。存在に対する悟浄の不安はそのまま後世に同じ不安を抱える人への擬似思考体験となると思います。悟浄が試行錯誤したことがらを、また悟浄と同じ「病い」を持つ人が受け取りそれにプラスして考えを深められると思うので、常に「存在」に不快感を持ち続ける人には読んで損は無いと思いました。「悟浄出世」「狼疾記」は「山月記」のような物語としての完成度とはまた違った未完成な柔らかさ、というような予測不可能な可能性を秘めている気がします。まるで完全な輪が閉じずに未知へと開かれ、どこか無限に流れ続けているようです。だから「悟浄出世」も「狼疾記」も、物語としてはどこか決着のつかないままに、不安な気持ちのまま終わっている気がします。