出版社内容情報
「視ること」は「殺すこと」である――支配し、侵略し、殺害する「上空からの眼差し」としての空爆は、第一次世界大戦や日本空爆、朝鮮空爆などを経て、いかに変容し、遠隔爆撃ドローンや現在の戦争における空爆の眼差しへと至ったのか。ウクライナ侵攻まで一貫してつながる「メディア技術としての戦争」を問い直す。
内容説明
二つの大戦からウクライナ侵攻まで。「視ること」は「殺すこと」である―支配し、侵略し、殺害する「上空からの眼差し」としての空爆は、第一次世界大戦や日本空爆、朝鮮空爆などを経て、いかに変容していったのか。「メディア技術としての戦争」を問う。
目次
序章 アイ・イン・ザ・スカイ―アフガニスタン上空
第1章 日本空爆―上空からの眼差しの支配
第2章 空爆の冷戦、そしてポスト冷戦
第3章 メディアとしてのドローン爆撃
第4章 空爆という上演―眼差しとふるまい
終章 プーチンの戦争―モバイル時代と帝国の亡者
著者等紹介
吉見俊哉[ヨシミシュンヤ]
1957年生まれ。東京大学大学院情報学環教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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榊原 香織
60
”空爆は、(中略)植民地主義的眼差しの体制の、究極の現在形なのである”(p23) なかなか面白い。ドローンについての情報、こういうのが欲しかった。自爆型ドローンが、カミカゼ・ドローンと呼ばれるのが日本人的には何ともはや・・ ポストモダン戦争論。2022/12/03
msykst
9
ドローンに至るまでの空爆技術を「視線」の問題として扱い、それは一貫して植民地支配の不均衡な眼差しだとする(吉見俊哉曰く『博覧会の政治学』の続編)。ドローン技術が第二次世界大戦中、日本軍の特攻隊への対抗として開発が進められた事を、ベンヤミンの技術論に重ねて論じるなど。多分、特にセルトーの「戦略」と「戦術」の区分けを基に、「眼差される」側の対抗戦術を論じるのが重要なのかと。多分身体と視線の地理的なズレがポイントなんだが、眼差される側の戦術行為は寧ろ身体を活用してるのが興味深く、特に演劇の話は吉見俊哉だなと笑。2023/02/12
ぷほは
8
出たばかりの時は「ほーん」って感じで素通りしていたのだが、読み始めたら「おもしれえ~」と唸りながら一気に読了。地上と空中の対比が帝国と植民地に、カミカゼや自爆テロとドローンによる無人爆撃の対比が過去と現在に、それぞれ幾重にも層をなして戦争の技術史=まなざしの変遷史が語られていく。巻末の北田暁大の解説も見事。侵略地をテクストとして読み込んでいくのはサイードが『オリエンタリズム』でナポレオンを引き合いに出してたからというのは良く分かるが、アレクサンドロスとアリストテレスの時代からそうだったのではとも思う。2022/10/07
つまみ食い
5
天から地をまなざす空撮、空爆の知ー権力、特に植民地主義、オリエンタリズム的なものとの関わり方という19,20世紀論として古典的ともいえるトピックを鮮やかに扱いながら、メディア論的に今日的(といっても発明は第二次大戦以前だが)なドローンも論じる。2022年からの状況下で、メディア論とポストコロニアリズムに興味がある人にはまずもっておすすめできる本ではないだろうか。2023/02/24
Mr.Hiyoko
3
空爆をメディア論的に捉える。その発想にはテレビや映画論的な極めてポストモダン以降のスマホやデジタルゲーム的な状況の発露があるといえる。爆撃という媒介がもはや操作的であり、対象に触れる触視的な空間世界として現出している。帝国主義的な空爆はいまやドローンという不気味な主体へと変貌して、私達を無人称的に監視し制御して、ときに自動的に殺す。筆者は日本空爆やカミカゼという戦前的な問題系を見出していく。特攻兵とは、先駆的なドローンの「眼」であったという筆者の主張は私達の今があの時代と地続きであることを示唆している。2022/10/04